スケジュールに花束を

バンド、フレンチトーストのブログ。広島の明王台という団地にあるきららカフェで、2014年春にすがわらよしのりとマスターとで結成したフレンチトーストのストーリーを伝えます。

第19回 2021 新春 FRENCH TOAST de SHOW! 〜PHOENIX〜

PHOENIX

繰り返されて行く毎日の生活の中で、雑用に追われながら合間にフレンチトーストの新曲を制作する。
暮らしとはきっと、どんな立場にある人にとってもその人の暮らしの中では大抵の場合平凡に感じるものなのかもしれない。
例えばミュージシャンとして大ブレイクしたとしても、ジェットコースターのような起伏に富んだ人の羨む夢のような人生の成功を手にしても、その先に辿り着くのはその人の人生の中では平凡な日常なのではないかという気がしていた。


音楽の世界でいえば、僕らミュージシャンはビートルズの成し遂げた20世紀型の成功モデルを夢見その模写を完成させようとあくせく汗を流し生きて来たように思う。
僕は18歳の春上京して、夏になった頃にその事実を目の当たりにする思いで深い絶望感に苛まれながら挫折感を味わっていた。

煌びやかな虚飾の大都会のアスファルトジャングルには夢がない

まるで僕は玉砕し祖国に帰る手立てすら失った兵士のような気分で暫く過ごしていたけれど、結局田舎に戻った。
精神的にヅタボロになってしまっていて、這い上がるのに相当苦労した人生をその後送ることとなった。
振り返れば長い話だ。

物質的成功や社会的成功は確かに素晴らしいかもしれない。
その価値を強く信じた周囲の人や社会から眼差しを向けられ、判断され見下げられ傷ついたり褒められまんざらでもない気持ちになりながら人は人生の旅を続けているもののような気がする。
だがその価値基準の中心は自分の心の外側にあるものだ。

時代や社会が重要だとする幸福の価値観に基づき、自分の人生を捨て去るような生き方を人は無意識に選びながら社会や時代に順応して行く生き物ではないだろうかと僕は思いながら生きて来た。
だがそれでは人生とても寂しくて僕は堪らない気持ちになった。
人生の中心に自分の心が置かれていないのだから。
だが人は社会や時代の重要とする価値観を欲する。
周囲の人や社会や時代から評価されないと社会的に抹殺され生き残れなかったからだろう。
それは1つの超リアルで、ある種絶対的な掟だったような気がする。


その掟に異論を唱えたのが奇しくも今回のコロナ騒動ということになった気がする。
今迄のような調子で社会に出て行き経済活動を続けることがままならなくなった。

働かざる者食うべからず

誰が言った言葉か知らないしどういった意味の込められた言葉かも分からないのだけれど、僕らはそんな言葉を呪いの呪文のように聞かされながら大人になって来たように思えていた。

本当にそうだろうか

僕は疑問を人生の中に呈す。
働くという事の概念自体が怪しく思えていた。
経済活動に繋がる仕事のことを人は労働と定義している。
だがそれは資本主義社会の中での1つの価値観側から見た定義でしかなかった。
そのことの意味に深く気付く人間はたぶん余りいない。
真の労働とは、人間が人間として生きて行く為に必要な根本原理を守り愛を貫く営みの全てではないかと僕は考えている人間だった。
言葉で簡単に語ることなど出来ない大きなテーマだと思う。
経済活動に繋がっていなくても、人間性を重んじその価値に沿って自分の信念を貫き生きている人間を僕は高く評価したい。
社会がどんなにその人間を見下げて馬鹿めていようとも。

コロナで自粛が続き、夜の街に繰り出し仲間達と宴会をして日常の憂さ晴らしをするなんていうことが難しくなった時代。
飲み会だけが人生の唯一の楽しみだという意見を耳にすることがあった。
人生に特別な目的は見出せないし、大好きな仲間達と共にお酒を飲んだり美味しい物を食べてワイワイとお喋りをしながら楽しく過ごす時間に心救われていたということかもしれないと思っていた。
経済活動がままならない日常と、飲み会が開けないというコロナの時代の現実。
これは2つで裏表一体の1つの現実という事だった気がする。

たぶん僕達は自分との向き合い方がもっと上手になれば、コロナの時代を割合上手く乗り越えて行けるのではないだろうかという気がする。
ありふれた平凡な日常生活の中に豊かな喜びや幸せを見い出すことが出来るようになったら、きっと人生に広がる風景は随分違ったものになって行くのではないだろうか。
人生の中心に自分の心の感じ方が大切に置かれていて、心や命を大切にする価値観に沿って生きられるようになったとしたらこの社会は随分平和になるのではないかという気がする。
生きて行く為に社会や時代に順応することで、人は自らの本心すら忘れ去ってしまう。
そしてストレス発散に憂さ晴らしが必要となる。
ストレスとは自分を生きていないとから発生するものと定義し考えてみる。
僕独自の仮説を語ってみているが、間違いなく事実だったのはコロナによって僕達1人1人が生き方を根本的な部分から深く見直さなければいけない時が来ていたということだったように思っていた。

自分を生きている人は、きっと生き生きしていて喜びに溢れている。
だがそれを許される環境に身を置ける人は少ないかもしれない。
大方の人は、自分らしさを表現しロマンを追い求め生きるなんて事は許されない状況の中で人生を送って行くものではないだろうかと思う。
社会は生産性を高めるために機能している。
ロマンを抱き生きることは不合理を生み生産性には乏しいものかもしれない。
これはロックとビジネスとの関係にも似ている。

だがコロナの時代が僕達に要求し始めたのはロックであることだった。
様々な分野で人に優しいサービスの提供が要求され始める。
自らの利益や生産性を追い求める姿勢では時代に向き合えなくなった。
お客様の生活と幸せを願い真心を込めてサービスする者だけが時代によって生かされ始める。
生き方が本質に沿っていなければ淘汰されて行く。
ロックとは本質という意味に置き換えて考えることが出来ると僕は思う。


本当の豊かさってなんだろうか。
ダイヤモンドはなくたって、青空を見上げ幸せだと感じられる心があれば人間は本当はそれで良いのではないだろうか。
健康を損なってみて初めて健康の有り難さに人はようやく気が付くものだという気がする。
本当は元気ならそれで人生十分な筈だったのに。

一体僕らは何に思い悩んでいるのか。
バブルという幻想がまだ僕の心の中にはあったかもしれない。
かつての経済大国日本は、既に精神性を失いかなりの後進国と思える迄に落ちぶれ後退しているように思っていた。
そして第二次世界大戦後にアメリカの傘の下に守られながら甘やかされた生ぬるい平和の中で生活を送り続けて来たことで、世界各国とは切り離された孤島に生きる僕達は文明病に取り付かれてしまう。
それが自殺者ワーストワンの国の成り立ちだろうと思う。

何でもあるのに何もない国。
当然こんなことでは駄目だ。
駄目になったことを批判しているのではなくて、強く生きて行く為の勇気が欲しくて僕は心の中でそう叫ぶ。

そんな思いを抱えながら2021年の桜の季節を迎えようとしていた。
今年こそは皆にとっての真の希望に繋がる1年になってくれますように。
年明け早々の話になるが、僕はフレンチトーストの2021年初となるショー「FRENCH TOAST de SHOW!」を開催した。
コロナの時代を生きる我が同胞である日本国民の皆様に語り掛けるような気持ちで行ったコンサートだった。
僕の2021年の人生の旅はそんな風に始まって行った。
また定期的にフレンチトーストコンサートをどんな形になるかは分からないがやって行こうと思っていた。

幸せの青い鳥を追い求めるような人生を彷徨うのは嫌だ。
都会の森の深い霧に覆われた樹海の中で、人は人生のという名のラビリンスへと辿り着く。
天へと突き刺さる摩天楼の最上階へと掛け上ろうとも、夜の星は掴めない。
僕らはまだ昭和の時代の残した東京五倫の頃の夢の続きの幻の中にいる気がしていた。
高度経済成長の頃の夢から覚め、僕達は新しい現実を生き始めなければならないと思っていた。
本当の幸せというテーマに向かい。

どんなに大成功したとしてもこの街では誰もがみな孤独だ。
全ては移ろって行く。
人生の中で掴み取ることが出来る確かなものなどは何もない。
その事実に気付いた時、人はきっと虚無感に襲われるだろう。
その虚無感から這い上がり立ち上がることが、本当の人の心の再生であり国の復活のような気が僕はしていた。
その1連の葛藤劇を僕はフェニックスと呼んだ。


第19回 2021 新春 FRENCH TOAST de SHOW! 2021.1.10

第19回 2021 新春 FRENCH TOAST de SHOW!
演奏曲
1 幾つもの季節
2 FRENCH TOAST de SHOW!
3 午前0時のMOONLIGHT
4 HAPPY NEW YEAR
5 STAND UP JAPAN
6 人生に幸あれ
7 フレンチトースト
8 同窓会
9 赤ヘル
10 先生
11 全員集合 de SHOW!
12 小春日和
13 PANDORA
14 CHALLENGE
15 I BELIEVE
16 素晴らしき人生を
17 母のバラード
18 幾千万億のSTARDUST
※12曲目に演奏した小春日和は、この日歌った歌詞を作り替え変更しようと思ったので公開せず編集してカットしてあります。