スケジュールに花束を

バンド、フレンチトーストのブログ。広島の明王台という団地にあるきららカフェで、2014年春にすがわらよしのりとマスターとで結成したフレンチトーストのストーリーを伝えます。

全員集合 de SHOW! 〜志村けんさんへ〜

子供の頃を振り返ると、何だか日曜日よりも土曜日の方が楽しかったような気がする。


何故だろう

そんな疑問がふと心に浮かんで来た。
余り学校の勉強は好きではなかった。
だけど土曜日は、半日だけ学校に行けば友達と会えて午後から遊ぶ約束が出来た。
日曜日は何となく憂鬱な部分があったような気がする。
例えば土曜日に日曜日にも友達と遊ぶ約束をしておけば良かったのだし、何が憂鬱感の問題だったのだろう。
あの頃の僕にとって家庭は安らぎの場所ではなかった。
だから学校に行っている方が気が楽だったように思う。
そのことは大いに僕の感じていた憂鬱に影響していたような気がする。
そんなことを漠然と思っていた。

僕は子供の頃の土曜日のことを振り返り、こんな歌を作っていた。

全員集合 de SHOW!

そんなタイトルの曲だった。
80年代に小学生だった僕は、土曜日の夜8時から8時だよ全員集合というテレビ番組を観て育っていた。
ドリフターズの番組で大好きだった。
去年フレンチトーストのオリジナルナンバーとして完成し、ライブで歌っていた。


2020年
桜の季節。
突然志村けんさんが新型コロナウイルスに感染し入院しているというニュースが流れて来た。
病状が思わしくなく進行が早いようだった。
そして間もなく死亡のニュースが流れた。

本当に足早で掻い摘んだ文章になるけれど、志村けんさんへの思いは自分で思っていた以上に大きいものがあった気がしている。
子供の頃、土曜日が好きだった理由にはテレビで8時だよ全員集合が放送されていたことが要因としてあったことは間違いないように思う。
何だか沢山救われて来た気がする。
寂しさや悲しみが癒されていた気がする。

あの頃、志村けんさんは僕のヒーローだった。
志村けんさん、つきなみな言葉だけれどありがとう。
また天国で沢山の人を笑わせて下さいね。
益々のご活躍を心よりお祈りしています。


今日紹介しているYouTubeのライブ映像の中で、5曲目に全員集合 de SHOW!を演奏しています。25分代になります。皆様に楽しんで頂けたら嬉しいです。


FRENCH TOAST de SHOW! 2020.1.25 ダイジェスト

全員集合 de SHOW!

土曜日の夜8時だ 慌ててテレビのチャンネンを回す
賑やかに今日もスタート 長さんのコール 満員の公会堂
学校の宿題はランドセルの中眠る
わんぱく盛りの僕 あの頃のHero 志村けん
昭和ロマン 素晴らしきShowのSaturday Night
夢心地 幸せ気分のGood Time
バラ色のゴールデン 首ったけ
土曜日のお楽しみ 全員集合 de SHOW! 永遠さ

劇が終わりアイドルの歌 早口言葉に髭ダンスもあり
のどかな時代を思う 現代捕り物劇さ 悲しくて
うたかたの夢見る 国民の合言葉失くし
ドリフよ もう一度 僕らの国を笑わせて
昭和ロマン 華やかなShowのSaturday Night
お祭りのよう 和やか気分のGood Time
来週を待ち侘び 眠り就く
土曜日のお楽しみ 全員集合 de SHOW! ありがとう

志村の道化に腹抱えて かとちゃんはおとぼけ役 長さんのつっこみ
中元こうじの体操 ブーさんはマイペース Oh Yeah!
最高だね ドリフターズは僕らの夢さらった

そっと瞳を閉じて 子供の頃へと思い出旅行に出かける
僕達は心のふる里を忘れ去るように あの時代から随分遠く旅して来た
日本よ 今日は元気ですか? 僕は皆様の幸せを願い歌っています
そっと耳をすませば 今も聴こえて来るよ あの歌が

Ba Ban Ba Ban Ban Ban Ba Ban Ba Ban Ban Ban
Ba Ban Ba Ban Ban Ban また来週 Oh Yeah!


昭和ロマン 素晴らしきShowのSaturday Night
夢心地 幸せ気分のGood Time
バラ色のゴールデン 首ったけ
土曜日のお楽しみ 全員集合 de SHOW! 永遠さ
全員集合 de SHOW! バブルの夢

311以後、新たに大きな国難を迎えていた。
新型コロナウイルスが中国で蔓延して、隣国である我が国日本にも上陸した。
政府の対応が余りにも不適切で鈍間過ぎた。
医療倫理に反した非常に不味い対応だった。


311の時もそうだったけれど、情報の隠蔽が続いた。
改憲には絶対反対の僕だった。
国会は強行裁決の嵐で、民意など全く蚊帳の外に置かれ無視されていた。
その上改憲などされてはたまったのもではなかった。
311以後の社会問題や新型コロナウイルスへの政府の対応を見ていて、危機に対する感覚がないのかと思える程判断が遅くて、一体何を考えているのかさっぱり掴めなかった。
政権側には政権側の考えがあったのだろうとは思う。
だけど、問題に上手く適切に対処していたとは言えなかったと思う。

新型コロナウイルスへの日本政府の対応に対して、国際社会から非難が殺到する有り様だった。
それは適切に対応して欲しいという世界からの願いだった。
幾ら正しいと思って行った政治的措置も、結果が着いて来なかったなら過ちがあったと思うべきではなかっただろうか。
特に今回の新型コロナウイルスへの対応については、そういったことにはっきり該当する問題だと思った。
国際社会の中で日本だけが、新型コロナウイルスの感染拡大へと繋がる最初の措置を行ったという事実があった。
日本政府は国際社会からの批判の意味をどの位くみ取り理解出来ていたのだろうか。
我が政府の新型コロナウイルスへの対策の無策さや無能ぶりが明らかに露呈してしまい、世界的なパンデミックを引き起こし兼ねない危機的状況の中で世界から非難が生まれたことは当然だったと思う。
だが日本政府は対応は適切であったと主張していた。
本当にそう信じていたのだろうか。
それとも単なる詭弁や嘘だったのか。
これは311以後、この社会が原発に対する認識を改めようとはしなかったことに通じる事柄だと思った。

政府による放射性物質の汚染状況の隠蔽が続き、国民もその問題から目を背け続けて来た。
その部分に於いて、311以後の日本社会には殆ど進歩がなかったように見えた。
とても残念なことだった。
現実を見ようとしない国民。
そしてなり振り構わず私利私欲の為に権力を奮うように見えていた政府。
真実かどうかは分からない。
だけどそういった現実的な状況への政府や多くの国民の反応を見て推測するに、これは裏表で一体で同じものだと言わざるを得ないように思った。
国民の心の状態の投影が政府の姿に違いないように思えた。
無関係ではなくて、必ず何か因果関係が働いているように思えた。


日本は戦後恵まれ過ぎたのだと思う。
政治家も国民も前の世代の築き上げて来た国の財産や恩恵を受けて、ろくに世界のシビアな現実に向き合うこともなく、何も考えなくても平和に暮らして来れたことが日本人を駄目にして来たように思えていた。
長き安定した平和の中で、現役世代の大方の人々が生きて来た。
僕達は何とかなる経験ばかりを積む内に、危機意識が次第に薄くなって来たのだろうと思っていた。
余程大きな代償を支払わないと、この国はもう変われなかったのだろうか。
生命にとって一番大切なことが何か本当に分からなかったのだろうか。

お金より命

たったそれだけのことが。

新型コロナウイルスの問題は、311の時の福島第一原発事故放射性物質への取り組みと延長線上にある事柄だった。
人間の生活に対して危険なものとの向き合う姿勢が問われるという意味で同じことだった。
原発に対して考えを改めなかったから、コロナウイルスの脅威に曝される現実を招いてしまったように思う。
このまま考えを改めなかったら、益々ハードな危機に直面することになるのは明らかだと思った。


人間はとても愚かだ。
高度に文明を発達させては戦争を繰り返し、何度も滅びて来たのだろう。
原発の問題にしても新型コロナウイルスの問題にしても同じだった。
人の欲が引き起こした明らかなる人災だった。

人間が多くを望まなければ、この地球は楽園で天国のように美しい夢の星なのに。
人間はそれだけのことに気付けない。
何千年かけても。

空は澄み渡り、風が歌う。
春に花は咲き乱れ、日本には美しい四季の移ろいがあった。
その風情の中で、大切な人と寄り添い静かに何気なく、そして強く生きる。
元気で笑顔が絶えないことに感謝しながら。
それ以上に大切なことなんて、本当は何もない。
問題は常に人間の身勝手な欲から起きていたように思っていた。

死んだら終わりだし、もともこもない。
お金や財産なんて、死んだら全て手放さなくてはならない。
所有出来ず、一時的にこの世で借りているだけのものだった。
自分のものなどではなかった。

人や世界の美しさへと目を向け深く慈しみ愛し、そして人から慕われるような生き方が出来るように頑張ること。
それがこの人生の全ての価値だと僕は思う。
それは魂の財産となり決してなくならない。
そういった心掛けから行動するば、そこから生まれる恩恵は益々増えて行く。
お金や物だけが僕達にとっての唯一の豊かさではないという事実について、我が国日本の対峙している国難は教えてくれようとしていたのではないだろうか。
本当に大切なことは、実は当たり前過ぎて僕らは忘れてしまいがちだ。
僕らがもっと愛し合って幸せになれるように、険しい道だけど大切なことに気付きなさいと何か大きな存在から日本や世界に愛が向けられているのではないだろうか。

命を第一優先にする国へ。

政治指導者という立場の人に分かって欲しい。
国民こそが国の一番の財産であるということを。
その国民の権利を奪い貧困へと向かわせる政治は、まさに政治家自身の首を自らで締めていることなのだと知って欲しい。
独裁的な政権は必ず滅びる。
自然の理に適った営みをしていないからだ。
無理がある。
そして国民からの恨みを買いろくなことにはならない。
いいことなんて何もないのに、どうしてそれが分からないのだろう。
政権側の真意がどんなものなのか分からなかったけれど、起こっている事柄からそんな風につい嘆きたくなる僕がいた。
権力者達が私利私欲の為に暴走しているように見えたのだ。


これからの我が国の在り方について思いを馳せてみる。

多少貧しくとも互いに慈しみ合って手を取り合い生きることで生まれる真の幸福感を感じながら生きる方が人間として本当に豊かであり、またその営みは未来永劫に続く尊い愛の営みであることにもう気付かなくてはいけない時期に来たと思っていた。
人はみな不完全だ。
許し合わなくてはならなかった。
長所を見て多少の欠点には目を瞑る。
お互い様の精神が大切だと思う。

はっきりと言えることは、毎日繰り返されていた果てしない生存競争の嵐の中でいがみ合い足の引っ張り合いをしていても幸せはやっては来ないということだった。
誰一人特をしない。
面白くもないし、皆孤独になって死にたくなるくらいのものだという気がする。
自殺者ワーストワンの国。
そのことをとても悲しく思っていた。
助け合いさえすれば、足りないものなんてこの国には大してなかった筈なのに。
分け合えば増えるということを僕らは知らなければならなかった。

戦後の焼け野原の街を復興させてくれた昔の日本人のお陰で、世界にその勤勉さや努力、誠実さが伝わり認められ信頼されて高く評価されて来た全てのものをこの国は自ら失おうとしていた。
僕らは大抵の人がたぶん、戦後の平和の中で自分の権利の為に立ち上がり行動を起こしたことはなかった筈だと思う。
311以後、初めてデモを体験したような人が多かったことだろう。
学生運動に敗北して以来、国家権力と闘うことを諦めた。
それは時代を越えて、それ以後の世代にも無意識のレベルで受け継がれて来たように感じていた。
日本人の魂に受け継がれて来た美しさを、もう一度世界に向けて表現し直すことが大切なことのように思っていた。
プライドと誇りを取り戻したい。

戦中に等しい混乱の時代の中で、僕はまだロマンを捨ててはいなかった。
全ての日本人が、歓びを持って参加することの出来る社会になって行きますように。
尊厳が守られ、命の重みが感じられる人間性が育まれる社会になって行きますように。

 

今日紹介しているYouTubeは、約1年前にライブで素晴らしき人生をという曲を演奏した時の映像です。
皆様の人生にこの曲を贈ります。


フレンチトースト 素晴らしき人生を

素晴らしき人生を

人生はなんのためにあるというのだろう 立派な人になるように育てられ
幸せは人それぞれ違っているのに 学歴を積み会社に勤める
日本という国 戦後豊かさ求めて 皆幸せになれると信じた
世界有数の経済大国になって人々は
豊かさと幸せを取り違えたんだ
Ah 素晴らしき人生を 愛すればとても美しいよ
夢は消えたんじゃなくて 目が覚めて愛に気づいただけ

悲しみに暮れる人を見ていると僕は 胸が痛んで抱きしめたくなるよ
失ったものの多さに絶望している 大切なのは命と未来さ
生存競争で互い傷つけ傷つき 競い争い全て失った
心満たすもの それは愛だけさ 時代変わっても
人間が失っちゃいけないものは愛
Ah 素晴らしき人生を 心から祈り歌っている
本当に大切なことをひとつずつ数え直せばいい

人の幸せは 何気ない日々振り返るその時分かるよ
あれが愛だと


Ah 素晴らしき人生を 愛すればとても美しいよ
信じていたもの達が崩れてもあすに懸けて欲しい
Ah 素晴らしき人生を 心から祈り歌っている
空はどこまでも高く広がっているさ あすに向かい
広がっているさ 愛のように

2019 LAST STAGE

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2019 LAST STAGE

令和元年のラストステージは、ささやかな身内での集まりのような雰囲気になった。
お客さんは最近出会ったダンスをする少年、上原孝太郎君と孝太郎君のお母さんの2人だけだった。


ライブ当日。
孝太郎君のお母さんから、LINEのメールが届いていた。
用件は、遅れるがライブにやって来るとの内容だった。
なのでマスターとひかる君ときはぴーの3人は、リズムセクションの練習をしてお客さんのいない空いた時間を過ごしていた。
マスターは指導者となり楽しそうだった。
ひかる君も弟子であるきはぴーの楽器演奏の上達をサポートしていた。
きはぴーは、アフリカの大地のリズムのような難しいビートをドラムで叩いていた。
腕をメキメキ上げていることが分かった。

流石に年末の押し迫った忙しい時期で、ライブにいつも来てくれていた人達も皆用事がありやって来ることの出来る人はいなかった。
お客さんがいなくても、自分のライブをやるペースを崩さないでいたかったからやることにした。
そんな気持ちで2019年のラストコンサートを計画した。
6月22日に僕の育った街である田尻で第1回目のこのショーを始めてから、数えること第9回目のライブとなっていた。
6月22日は丁度夏至だった。
約半年の間、何度もライブへと足を運んでくれた方達の姿があった。
この定期的に行って来たFRENCH TOAST de SHOW!を楽しみにして下さっていた皆さんがいてくれて、何とか細々ながらやって来ることが出来たことが有り難かった。
体力気力共に好調の時ばかりではなく、アップダウンの波を乗り越えながらの日々だった。
作品作りについては、皆に聴いてもらいたい歌がどんどん用意出来た時もあれば、なかなか進まなかった時もあった。
曲が書けないことはなかったのだけれど、1つの歌をハイクオリティーでより完璧に仕上げようと努める時、細々とした詰めの作業に手間取ることがあった。

ライブに来てくれた皆様、本当にありがとう

そう思っていた。
来年もこのままこのショーを続けて行こうと思っていた。

僕はきららカフェのメインルームでママさんの入れてくれたコーヒーを飲みながら、暫しくつろぎの時間を過ごしていた。
ママさんがずっと話し相手になってくれていた。
何だかんだと思いつくままに、ママさんとのたわいのない会話を楽しんだ。

僕は、暖かな春の陽だまりのようなマスターご夫妻の人柄に親しみを覚えて来たのだろう。
目の前にいる僕という人間を真っ直ぐに見て受け入れてくれているように感じられるからこそ、長い間きららカフェにお世話になって来たことは間違いのないことだったように思う。
人生の中でそんな出会いが出来るのは、きっとそんなに多くあるものではないように思っていた。
よっちゃんと言って、僕のことを愛称で親しみを込めて呼んでくれていたマスターご夫妻がいた。
勿論、温かい人柄のご夫妻なので誰にもそんな風に接しておられたように思う。

僕がきららカフェを初めて訪れたのは、2013年8月の夏のある日のことだった。
あの日から随分時は流れ去り、季節は幾度となく巡っていた。
きららカフェも途中2度の長期休暇期間があり、今は週に2日だけの営業をしていた。
マスターご夫妻は、お二人共70代でのカフェの営業をされていた。
無理なく元気に続けて欲しかった。
生涯現役で。


マスターとひかる君ときはぴーとがセッションをしてきはぴーの楽器レッスンをしていたカフェの奥の部屋は、皆で楽しそうに盛り上がり演奏が続いていた。
こんな時、体験型音楽教室のような雰囲気になるのはいつものことだった。
ひかる君は、インストラクターをするのが向いているようだった。
情熱的にテキパキと指導をして行く。
はっきりした性格だったから、言うべきことは直ぐに伝えているようだし指導者としての資質を備えているように思った。
人が向上しようとすることに対して、応援しようという気持ちの強いひかる君を感じる思いだった。
きっと自分自身のダンスの夢を追っていたからこそ、人にも夢なんかがあれば応援したい気持ちになったのかなと想像していた。

僕のバックでドラムを叩いてくれている時にも、ひかる君のそんな思いが伝わって来るように感じていた。
僕の歌をより良く聴いてくれている人に伝えようとする意識が感じられるようだった。
バンドを組むと人間関係がややこしくなることを経験していた僕は、爽やかに付き合える打算のないひかる君との関係が心地良くて楽しかった。
バンドを組むことは男女の交際にも似ているなと思っていた。
ドキドキワクワクする関係。
何だか気の重くなる時間が流れるような関係。
色んな関係があったことだろう。

音楽性が合わず解散。
バンドが解散する時、よく聞く理由だった。
音楽性って生き方でもあるのだろうし、どんな世界に向かおうとしている魂の集団なのかという部分で思いが重なり合わないと、やっぱりバンドメンバーとの関係はなかなか上手くは行かないのかなと思う。
音楽をやって行く上での目的意識やフィーリングの合うバンドメンバーと巡り会いたいと思っても、必ずしも出会える訳ではなかったように思う。
やっぱり最終的には、運命の出会いってことになるのかもしれない。
素晴らしいバンドメンバーとの出会いが出来るかどうかは、運命的な力による導きがないと難しい気がしていた。

実力主義というのが、たぶん僕とひかる君の共通の価値観だった気がする。
無名だろうが何歳だろうが、凄い奴は凄いと認める。
自分の目でちゃんと見て感じて、本物かどうか見抜く。
そういった生きる姿勢を、ひかる君は持っているなと思っていた。
それは現代社会に足りないもので必要なものだったと思う。

バンドメンバーに対して打算的な何か思惑が働いているなと感じると、僕はバンドをやっていても全く幸せにはなれなかった気がする。
フレンチトーストをやっていて1番素晴らしいなと思う所は、そういった柵がなくて輝ける青春時代を生きる学生の部活のノリのような雰囲気でバンドが楽しめていたことだった気がする。
仕事ではなくて情熱で、バンドメンバーと共に音楽をひたすらに愛していたかった。
フレンチトーストはビジネスにしたくなかった。

経済活動とロマンを追うことは、なかなか上手くは結び付かないものなのかもしれない。
生活のことを考えて夢を断念せざるを得ない状況だってあるかもしれない。
社会的な力や時代によって、不運にも夢を奪われることだってきっとあるのだろう。
資本主義に組み込まれるということは、純粋に夢を追えなくなることのように思っていた。
僕らの生活の全ては資本主義により成り立っていた。
そこで競争が起こり、能力がはかられ、物事の優劣が生まれていた。
芸術家は、その不自然なバランスをフラットに戻す挑戦者だと僕は考えていた。
より良い作品を生み出すことだけを目的とした生活に、幸せが感じられるような人生を送りたいと願っていた。
これは僕が1人守り続けて来た純情の話だった。

少年少女の頃。
人は誰しも、少なからずそんな淡くて脆いロマンを大切にしたいと思っているのかもしれない。
だが、そのロマンを生涯追える人は稀な存在だったに違いない。
僕は、少年の頃からそんな人生を送ることを夢見切望していた。
社会から評価されないとしても、実力主義で行きたかった。

資本主義社会は、商業ベースに乗らないと上手く世の中を渡り歩くことが出来辛かったように思っていた。
社会に順応してしまうと、芸術作品の命を守るという視点の上ではかなり危険な生き方だった気がする。
それに成功したとしても、人気者でいられる時間なんてきっと短い。
人気がなくなれば使い捨てられることは間違いのないことだった。
お金にならないし、色んな意味で社会の人々にとって群がる価値がなくなるからだったのだろう。

お金が絡むと大抵ろくな結末にはならないのだろうなと思っていた。
お金は魔物だった。
僕が音楽をやる為に生まれて来たとするならば、きっと本道を踏み外さない限り生活の方は何とかなるくらいにしか考えてなかった所が僕にはあった。
僕の頭の中にあるのは、常に殆どが音楽のことばかりだった。
少年の頃からずっと。
どんなに茨の道が続いて苦悩していたとしても、音楽に全て昇華して行くことが出来る人生だったから本当に幸せな人間だなと自分でそう思う。
恵まれていて運が良かった。


ひかる君は名古屋でのダンス大会で見事に賞を受け取っていた。
きららカフェのメインルームで、その話題についてひかる君と盛り上がって話をした。
女の子3人とひかる君の4人でチームを組み、ダンス大会で踊ったとのことだった。
かなり緊張して吐きそうになったようだった。
ひかる君達を指導していた女性は、出産を機に退職するのだったかお休みに入るのだったかどちらだったか忘れたが、先生のその今後の予定についてひかる君が話して教えてくれていた。
ひかる君の話によると、賞には今迄縁のなかった学校だったそうだ。
ひかる君はお世話になって来た先生に賞を取らせてあげたかったとの思いを語っていた。
本格的なショーの場だったようで、有名な人が審査員として招かれて来ていたようだった。

ひかる君達はよく健闘したなと思う。
この経験はひかる君をきっと成長させてくれていたことだろう。
審査員特別賞。
そんな賞のタイトルがひかる君の青春の日々の1ページに刻まれ、ダンスへのその情熱と努力を讃え人生を祝福していた。
グランプリも準グランプリも逃したけれど、ちゃんと評価を受けて良かったなと思っていた。
3位の位置になるのかなと思う。
立派な成績だった。

LINEのメールで、出発の時や賞の獲得について僕に報告を入れてくれていた。
きっとこのダンス大会での体験は、ドラマーとしてのひかる君にも良い影響を与えてくれることだろうと思う。
ステージに立てば、実力が問われるショーの世界。
助けてくれるものは、自分が身に付けて来た確かな技だけに違いなかった。
真剣勝負の世界だ。
だから感動が生まれる。
審査がどれ位厳正に行われているのか等、世界を見渡せばショーの世界には疑わしいことも多かったけれど、ひかる君達の獲得した賞はきっとその努力に相応しく栄光を讃えていたのだろうと思う。
2019年の年末にひかる君のダンス大会での大健闘の知らせが届き、幸せのお裾分けをもらった気分だった。


楽器レッスンもそこそこやった頃、この日のFRENCH TOAST de SHOW!がささやかに開演した。
第9回のFRENCH TOAST de SHOW!となっていた。
楽器レッスンをした分ライブをする時間がなくなったので、演奏を予定していた曲の構成でのライブをすることは取り止めて、結果的にこの日のFRENCH TOAST de SHOW!はミニライブとなった。
練習が足りないなと感じている曲を中心に演奏した。
11月のライブから声の調子が良くない日があったけれど、この日は好調だった。

ライブの2曲目で、マスターからリクエストをもらった午前0時のMOONLIGHTを演奏した。
この曲を演奏中にお客さんが1人やって来られた。
ご近所に住む女性で、音楽が聴こえて来たので興味を持ってカフェに立ち寄ることにしたようだった。
その女性が母のバラードを歌うと涙を流して聴いてくれていた。
どうやら息子さんのことを思い、歌詞の内容にご自身の気持ちを重ねて聴いて下さっていたようだった。
この曲の演奏後にお話をした時、そんな内容の話を聞かせてくれていた。
2020年の年明け早々の1月5日に、きららカフェでFRENCH TOAST de SHOW!をすることをふと会話の中で話しているとやって来て下さるつもりで興味を持ち聞いて下さっていた。
ママさんに再度ライブ日を確かめて聞いておられた。
最高のお客さんの広がり方だったのかもしれない。
僕は本物の社会的な平和運動を音楽でやりたかった。
いいライブにはいいお客さんが付く。
それを目指したかった。

ダンスをする上原少年のお母さんも、ライブを楽しんでくれているようだった。
LINEのメールでやり取りした際に、そんな内容の思いを伝えて下さっていた。
僕が暫くの間暮らしたことのある埼玉の大宮に住んでいた話を、この日のきららカフェでの雑談の中でお伺いした。
ご出身は大阪で今は中国地方に住んでおられて、幅広い地域を生活圏として経験されたことのある女性だった。


フレンチトーストのショーへと来て下さったお客さん達と、人間的な繋がりが持ててお話をさせてもらえるきららカフェでのライブは贅沢な時間で有り難かった。

2019年。
対バン形式でのライブやミニライブをずっとやって来ていたけれど、6月22日の夏至に行った第1回 令和誕生だよ FRENCH TOAST de SHOW!からワンマンライブとしてのライブ活動に入った年となった。
ライブ当日迄、少なくてもいいのでお客さんが来てくれたらいいなと客入りを気に掛けることもあった。
僕はお客さんがいなくてもいいと思えたかもしれないけれど、きららカフェでのライブはわざわざカフェを開けてもらってのライブだったのでお客さんにはやはり来て欲しかった。
ミュージックファクトリーでのライブも、ライブハウス側の経営上の都合があったと思うので出来れば少しでも多くお客さんに来て欲しいなと思っていた。
なので、会場で実際にお客さんの来てくれている様子を見て良かったなと安心するような状態だった。

フレンチトーストの誕生の地であるきららカフェや高島チャペルが、無料でのライブ会場の提供をしてくれたお陰でお客さんが少なくてもライブ活動を何とかやって来れた。
きららカフェにはライブ会場の提供代として、お客さん達から入場料として頂いた千円をお渡ししていた。
ライブに来てくれたお客さんに、いつもコーヒー1杯を付けて振る舞って下さっていた。
高島チャペルは、地域住民に貢献する活動をすることを教会としての心情とされていた。
なので、きららカフェと同様に無料でのライブ会場の提供を行って下さっていた。
そして何よりもコンサートを聴きに来てくれた方達がいたことで、FRENCH TOAST de SHOW!の原型となっていた2018年9月16日のミュージックファクトリーでのライブから活動を継続させて来ることが出来ていた。
初めは対バン形式やイベントへの参加でのライブをしていて、ミニライブだった。
25分から30分のステージの為に、お客さん達にわざわざミュージックファクトリー迄足を運んでもらっていた。
ライブハウスでは経営を成り立たせないとならない目的があり、チケット代プラスドリンク代として六百円を売り上げとしてお客さんから頂くシステムになっていた。
格差社会の時代にあり貧困者の多い社会情勢を踏まえると、お客さん達に頻繁にライブハウスでのライブに来て頂こうと思った際には決して安い金額ではなかった気がしていた。
経済とアートの関係には、いつの時代も難しさがあった。
資本主義社会に呑み込まれてしまわないで、草の根的な平和運動としてのコンサートをしぶとくやって行く道を僕は探していた。

2018年9月はきららカフェが長期休業中だった。
それでライブ活動をする際、街にあるライブハウスの1つだったミュージックファクトリーにお世話になることにした。
僕の地元での音楽活動を昔から支えてくれていた馴染みのあるライブハウスだった。
ミュージックファクトリーは移転してまだ月日が浅く、とても真新しくて品が感じられた。
オーナーが女性だからなのか、ライブハウスに集って来るアマチュアミュージシャン達の何だか汗臭い匂いと共に野心の渦巻くようなギラギラした雰囲気が余りしない印象を受けていた。
それでフレンチトーストライブを行わせて頂くのにいいかもと思った。
楽曲のイメージが何となくミュージックファクトリーの雰囲気に合う気がしていた。
ステージの後ろにカーテンが引かれているようで、そのしなやかなラインが優雅さを僕に感じさせエレガントな雰囲気がして好きだった。
音響や照明の設備も素晴らしかった。
申し分のないライブスペースだった。

2018年10月に、フレンチトーストのブログ「スケジュールに花束を」を開設した。
ブログタイトルの決定に戸惑った。
最初は窓辺の陽射しというタイトルだった。
悪くはないがしっくり来なかった。
次にFRENCH TOAST STORYに変えてみたが、このタイトルも何だかしっくり来なかった。
3度目に本気モードになり、現在のブログタイトルであるスケジュールに花束をに変えてようやく落ち着いた。
フレンチトーストの活動をSNS上で可視化して、社会に少しでもアピールする狙いがありこのブログを開設した。
僕の感覚としての話だったが、ライブだとメッセージがダイレクトに届くことが多い印象を持ち、SNSは情報の発信源としての力は殆ど感じられないように思えていた。
例えばブログの散文は読まないけど、本にして渡せば深く読み込んでもらえるような印象を受けることがあった。
あくまでも僕の推測での話だったのだけど、何となくそんな感覚を覚えていた。
YouTubeだと歌が伝わり憎くて、ライブだと次にまたリピーターとなりライブに来てくれることが多いなというような総体的な印象を持っていた。
コンテンツをどのように手渡すかという違いで、反応が随分違って来るように思えていた。
情報過多の時代にあってわざわざ情報を自分から集めはしないけれど、受け取り易く伝えてもらった時にはきっと人は反応する生き物だったのかもしれない。

2018年11月にはきららカフェが営業を再開した。
それでまたきららカフェへと出掛けて行き、ライブをたまにさせてもらうようになった。
そんな経緯があった。


令和元年のフレンチトーストのラストステージも、無事にお客さん達に恵まれることとなった。

何とかお客さんが途絶えずにライブをやって来ることが出来ていた。
まだ少ないお得意さん達が、暇を見つけては代わる代わるにライブを聴きに来てくれた。
僅かなリスナーに向き合えるということは、実は最高の贅沢だった筈だと思っていた。
社会からは逆の価値観を叩き込まれて育っていたけれど、それは幻想だと思っていた。
勿論、沢山のリスナーに恵まれる幸せもあると思う。
だが、やっていることは常に1人1人のリスナーの人生と向き合うということだったと思う。
少人数のお客さんに対してライブを通してちゃんと関わり思いを伝えられなければ、たとえブレイクしても本当の意味で素晴らしい功績には繋がらないように考えていた。
観客動員数や経済効果は数字的に跳ね上がって行くとしても。
社会はそのことを過大評価する。
その時ミュージシャンはカリスマとして語られるのかもしれない。
だが、僕の魂の渇きを癒してくれるようなミュージシャンの存在が見当たらなかった。
だから、僕自身が理想とし求める音楽を自分自身で作り歌うしかなかった。
たとえお金にはならなかったとしても。

令和元年のラストステージにありがとう。
きららカフェやバンドメンバーやお客さん達。
2019年にフレンチトーストライブに関わってくれた全ての人にありがとう。 


FRENCH TOAST de SHOW! ダイジェスト 2019.12.28

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■ライブ告知
※前回のブログでのライブ告知では、2020年1月26日にライブをするようにお知らせしていましたが、都合の為前日の25日に変更しました。26日に来ようと予定されていた方がおられましたら申し訳ありませんでした。

第13回 FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2020年1月25日
会場 きららカフェ
OPEN 12時30分
START 13時
入場料 ¥1000(コーヒー付き) 中学生以下無料

 

第9回 FRENCH TOAST de SHOW! 2019.12.28
演奏曲
1 MY WAY 夢遥か
2 午前0時のMOONLIGHT
3 野に咲く花のように
4 全員集合 de SHOW!
5 母のバラード
6 SCRAP MOUNTAINの黄昏
7 ドラムソロ
8 歌を友に人生の道のりを
9 BLUEな時代にSWING JAZZ
10 BLUEな時代にSWING JAZZ

全員集合 de SHOW!の初演

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※今日のこのブログ記事は、昨年12月15日にきららカフェさんで行わせて頂いたライブのレポートとして書き溜めていたものです。



全員集合 de SHOW!の初演

2019年も、あと半月程を残す蚤となった日曜日の夕方。
きららカフェでFRENCH TOAST de SHOW!が幕を開けた。


カフェのオープンは16時30分で、ライブは17時からという予定になっていた。
昼間はライブに来ることが難しいお得意さんがいて、その人の都合のいい夜にライブを計画したことがこの日のライブをやることになった事の始まりだった。
そのお客さんは、昼間はお百姓仕事があり忙しくてライブに来たくても来ることが出来ないという事情があった。
フレンチトーストライブに来てくれていた、定年を迎えた位から上の歳の世代のお客さん達は畑仕事をされている方が多かった。
人間が自然の中で生きて行く姿として、理想的だなと僕は思った。

農家が生き辛い政治的政策があり、自然と解離した生活を強いられている現代社会。
人の心が何か得体の知れぬものに脅えるように追い詰められていたとしても、何ら不自然なことはないと思った。
僕が少年の頃、時代に対して脅えていたもの。
あれは安全神話の中で盲目的に信仰されていた、社会的掟に対する危惧の念だったのではないかなと感じていた。
STAND BY MEは風に乗り流れてという曲では、その体験を歌っていた。
BLUEになっちまうもそうだった。

人が幸せになれないような政治的な政策がありきで、日常は成り立って来た時代の流れがあったと僕は思う。
だからGood Musicが余計に必要なのだと思う。
いい音楽と共に仲間と集い過ごす時間は、本当に豊かな思いにさせてくれて僕達にとって大切にしなければならないものが何だったのかを思い出させてくれる。


お客さん達の多くが遅刻して来られるとの話を聞いていた通りになり、オープニングから聴いてくれていたのは遅刻すると連絡のなかった6名のお客さん達となっていた。
僕は風邪が治りかけていて、鼻声で歌の調子が良くなかった。
ライブは少し遅れてのスタートだった。
カフェの雰囲気から何となくそんな出だしになっていた。

ダンスをする小1の少年上原孝太郎君が、お母さんと兄弟2人と共に姿を見せてくれていた。
バタバタしていて、なかなかライブのお知らせをお客さんになって下さっている方全員に迄上手く伝えられてなかった。
当日になり、孝太郎君のお母さんにLINEのメールでライブのお知らせをした。
そうしたら来てくれるとの内容の返信があった。

ブログの方も風邪をひいたりして更新しないままになっていた。
ブログがどれ位皆さんの役に立てているのか、よく分からなかった。
LINEのメールでのライブのお知らせが都合がいいというリアクションが多かった。
ネットやSNSをする人には、1番楽なライブのお知らせの受け取り方だったのかなと思っていた。
それ以外には、昔ながらの連絡方法として電話を使っていた。

僕は広報活動は苦手だった。
なので母がライブのお得意さん達に電話を掛けてくれていた。
元々母の知り合いを伝にお客さんを呼んでライブを始めていた。
その関係もあり、母が連絡役を務めてくれていた。
だが、そろそろ別の手段でライブのお知らせを始めるべきタイミングになりかけている気がしていた。
80代を目前にしていて、老いて行く母にいつまでも依存している場合ではなかった。
LINEのメール等によるライブのお知らせに切り替えて行くことを考え始めていた。

僕はどうも宣伝みたいなことは苦手で、余り好きではかなった。
だが今は自主的に広報活動を地道に重ねやって行く位しか、世の中の皆さんに自分の音楽のことを知ってもらう術がなかった。
例えば口コミでいい本が広まることがある。
そんな風な音楽の広まり方が素晴らしいなと思っていた。
僕は資本主義社会にどっぷり組み込まれたくなかった。

日本社会はズタボロで、街に出れば何も信用が出来ず詐欺まがいな世の中に嫌気が差すことが多かった青春時代。
日常はド派手だとしても、嘘、嘘、嘘のオンパレードのような気がしていた。
虚飾のアスファルトジャングルでは、人間性が常に削り取られて愛や夢が痩せ細って行くばかりのように感じていた。
そのことが僕には本当に寂しくて、とっても悲しいことだった。

世界の先進国から徐々に遅れを取り、この国はやがて相当に酷い後進国になって行ったと思う。
日本がバブルの頃には貧しかったよその国の下請けの仕事が回って来る時代になっていた。
そして精神的にも貧しく疲弊して行ったと感じていた。

そんな時代の中にあり、僕は自分の音楽だけを頼りに生きていた。
頼れるものは他に何もなかった。
2019年の年末に向かっている頃。


各ご家庭の経済状況は、大抵の場合どこも苦しくなる一方だった。
そして更には消費増税案が通り、施行がスタートしていた。
消費税10%。
白昼も真夜中もダブルワークに追われた人々の暮らしがあった。
24時間働けますかというキャッチコピーが流れていたバブルの頃から、この国は随分遠く旅して来たのだなという気持ちになった。
バブルの頃には、国民は経済成長の為に24時間働いていたけれど、今は格差社会の貧困に喘ぎダブルワークで生活を凌ぐ時代になっていた。

増税は国民の奴隷化の象徴だと僕は思った。
集められた税金は、国の借金返済に大方が回される見込みだった。

現政権の筋違いと言わざるを得ない、国民を蚊帳の外に置いた政治が行われていたように思う。
民主主義のいい所がことごとく破壊されて行ったと、個人的にはそう思っていた。
そしてそんな政治が行われる国になってしまったのは全て、政治に無関心で社会の為に自分では何もしようとしない僕ら自身の誤りが招いた現実だと思っていた。
そんなことを考えながら過ごす、令和元年の年の瀬の押し迫る頃の話だった。


現役高校生の少女と、その彼女のお母さんもやって来てくれていた。
星野源さんの曲の演奏をリクエストして下さっていたのだけれど、まだ準備が出来てなくて今回は演奏出来ないことをお伝えさせてもらった。
イデアという曲を練習していた。
また次の機会にリクエストにお応えして演奏出来たらいいなと思っていた。
きはぴーだった気がするが、前回現役高校生の少女がアップルパイを焼いて持って来てくれていてその話をしていた。
アップルパイを食べて嬉しかったらしい。
アップルパイの人だと既に記憶しているような反応が可笑しかった。

新曲を何曲か披露したライブとなる。
その中の1曲に全員集合 de SHOW!という曲があった。
僕の子供時代の歌で、バブル期の80年代を歌った。
土曜日の夜8時。
きっとそう言えば同世代の人には分かるのではないかなと思っていた。
あの番組のことではないかと。
この曲は、8時だよ全員集合というドリフターズのやっていたテレビ番組のことを歌ったナンバーだった。
毎週毎週公会堂みたいな場所で生番組として放送されていた。
調べれば何処が会場だったか分かるだろう。
懐かしい思い出だった。

8時だよ全員集合。
日本国民の合言葉みたいなものだったのかなと、今になってそう思う。
現代は昭和の頃と比べると、ネット等で皆個々人の趣味の時間を過ごすことが多いだろうから、きっと皆で同じ何かを共有することは少なくなった部分があったように思っていた。
ドリフターズのあのショーは本物だった気がする。
誤魔化しの効かないであろうライブで、人を楽しませ笑わせていたのだから。
バンド演奏は生楽器を使っていたのではないかなと思う。
そうだとすれば贅沢な時代だったなと思う。
バブル期で番組の予算に余裕があったからなのかなと思っていた。
シンセサイザーは素晴らしい音楽効果を発揮するのだろうけど、生楽器の持つ温かみや誤魔化しではない本物の楽器から生まれるサウンドの普遍性みたいなものをあの時代のバンドには感じる気がしていた。
劇も音楽もそういった要素に満ち満ちていたように思う。
CG等のテクノロジー技術の進歩が、人間業の退化を促して来た気がしていた。
音楽もシンセサイザーの魔法により、簡単メイク化したサウンドには人間を深く安らがせてくれる音色が消え去って行ったのだという気がする。
生楽器でのシンプルなバンド編成の持つパワーってあるのだろうなと思う。
フレンチトーストでやっているのは、そういった音楽性だったかなと思う。
たぶん究極的には、このスタイルが最強のバンド編成なのかもしれないと思った。
勿論、色んなバンド編成のそれぞれに魅力はあると思っていた。
今僕に実現出来るスタイルとしては、かなりベストであったことは確かだったのかもしれない。

全員集合 de SHOW!を演奏する前に、80年代の土曜日の夜8時といえば何を思い付くかお客さんに問い掛けてみた。
すとる直ぐに、全員集合?と思い付いたことを声に出し反応が返って来た。
はやり8時だよ全員集合は、あの時代に皆のお楽しみ的な番組だったのかなという気がする。
経済成長の最中で、物質的な1つの価値観に従いこの国はある意味では上手く行っていたのだと思う。
だから共通認識出来るテレビ番組もあったということのように思っていた。

だが、その一方では既に何かが失われていたのだろう。
その結末については、現代を生きる僕らが生き証人として毎日ニュース等で目の当たりにしている通りだった。

消費増税
改憲
モリカケ問題。
桜を見る会
伊藤詩織さんのレイプ事件。
嘘ばかりの政治。
轢き逃げ事件。
沖縄の基地問題
原発再稼働。
etc…

ぐちゃぐちゃだった。
もう古い体制への僕ら自身の依存を手放さないといけない時に差し掛かっていたように思う。
311以後のこの社会は、原発利権にしがみ付き脱原発への道を拒み続けた。

金。
出世。
名声。
財産。

311以後早期に脱原発へと舵を切っていれば、今頃はだいぶまともな社会になっていたような気がする。
もう直ぐ2020年がやって来ようとしていたけれど、この国は一向に前進しなかった。

桜を見る会について、大人しい国民も流石に今は現政権への疑問を多く口にし意思表示をするように変わって来ていた。
古い体制の在り方に対して、国民の不満は募り極限値を迎えたように僕は感じていた。
苦しい生活を救ってくれない政治に対して、国民は立ち上がり、自分達で何とか問題を乗り越えなくてはどうにもならないと実感し始めていたのだろうなと思っていた。
僕も含めての話だった。
僕がフレンチトーストのライブを頑張って行って行くことは、その民意の流れと同じことを意味していることのように思っていた。

今あるこの国の問題の全ては、戦後の繁栄と引き換えの代償だった。
その問題を乗り越えて行く為に、例えばドリフのことを歌う。
痛みを乗り越える為には感謝がなければならなかったように思えていた。
だから幸せだった想い出を温かな気持ちで歌いたかった。

フレンチトーストには、SCRAP MOUNTAINの黄昏という曲がある。
全ての想い出はその曲へと辿り着く。
そういった曲だった。
この日のライブで演奏していた。
ひかる君もきはぴーもこの曲はいいと感じたみたいだった。
この日が2度目の演奏だった。
最初に演奏したのは、この日のライブのひと月程前である11月10日のふれ愛ランドでの野外ライブの時だった。
凄く長い時間軸で切り取り、歌詞の内容を作っていた。
昭和の戦後から平成迄丸ごと含んだ、2つの時代をまたいでの歌だった。
かなり難しいテーマの歌だったけれど、ひかる君やきはぴーといった現代を生きる少年達にも何かが伝わっていたのかもしれない。
それが本当だとすれば、それこそが音楽の持つ素晴らしさだったのだろうなと思う。

ライブは予定していた曲を順調に演奏して行き、あっという間にステージは無事終了迄辿り着いた。
きはぴーのカホンの指導役をドラマーのひかる君に任せていて、今回のライブではだいぶ上達して音のバランスが良くなっていた。
歌の伴奏としての演奏が、少しずつ上達中のきはぴーだった。
ライブ中盤の頃だったか、遅刻組のお客さん達が姿を現しライブに参加して下さった。
そんなフレンチトーストライブとなった。

ライブ後には、ライブをした奥の部屋から入り口の扉のあるメインルームに移動して少しギターを弾きながら歌い、歌の伴奏としての楽器の弾き方について僕の解釈をひかる君ときはぴーに伝えた。
普段やっている弾き語りを言語に置き換えながら解体して、何故そう演奏しているのかについての説明をした。
細やかな演奏のニュアンスがあることに気付き表現力を磨き、技術を身に付けるには何十年も修行をしないとたぶんなかなか難しいことだと思うので、こんな風に直接音楽談義をする時間を僕よりもずっと下の世代になるバンドメンバー達と持てることに小さな歓びを感じていた。
直接教えることが出来たら、彼らが無駄な回り道をしなくて済むと思った。
ミュージシャンとしての彼らの成長の助けになれていたとしたら、嬉しい話だと思った。

前回のFRENCH TOAST de SHOW!同様に、僕としてはかなり不本意なライブになったけれどお客さん達はそれなりに楽しんでくれていたのかもしれない。
ライブのリピーターになってくれている人達が何度もお見えになって下さる訳だから、こんなに有り難い話はなかった。
音楽がつまらなければ人は離れて行く。
それは仕方のないことだと思う。
僕がやるべきことは、誇りを持ってステージに立ち歌えるという状態であれるように努めることなのだろうと思っていた。

FRENCH TOAST de SHOW!は、細々ながらではあるがどうにか軌道に乗った感がある気がしていた。
あとはひたすら多くの方に聴いて頂けるように、数多く開催して行くように努めようと思っていた。


日本には今、ホッと出来るようなものがない。
ホッとするというのは、本当のことが語られた上で優しい感受性に寄り添うような雰囲気があるかどうかに関係している気がしていた。
誤魔化して明るさを繕ってみても、安らぎはもはや得られない時代になった気がしていた。
嘘があるとホッと出来ない。
当たり前のことだった。
素晴らしい音楽とは嘘がないことでもあるように思う。
技術的なことではなく、まずその精神があるかどうかが重要な要素だと思う。
だからミュージシャンの生き様が良くなければ、素晴らしい音楽にはどうやってもなりようがないということになる気がする。
だから芸能界に依存していたのでは全く駄目なのだ。
歪んだ社会構造の中で、ミュージシャン自体も音楽も段々駄目になる。
僕はそう思う。

日本よ 今日は元気ですか?
僕は皆様の幸せを願い歌っています

僕はエンターテイメントに希望を託し夢見ていた。
冷めかけたコーヒーを飲み干すと、家路に着く為夜の闇の深さが次第に増してゆく街へと出て行く準備を始めた。
タクシーを呼んでやって来るのを待ち時間が流れる。
ひかる君ときはぴーは、僕がきららカフェを後にする時迄帰るのを待とうとしている様子だった。
なので、僕の帰りの時間を待たずに帰ってもいいことを伝えていたことを記憶している。

タクシーが到着して外に出ると、ひかる君ときはぴーがまだいた。
彼らはきららカフェへ自転車で来ていたようだった。
薄闇に包まれた風景の中に、ひかる君達が停めたらしき自転車が見え帰り支度をしている様子だった。
きららカフェの前の道路脇に停車しているタクシーに向かい歩きながら、ひかる君ときはぴーに別れの挨拶をした。
タクシードライバーがタクシーから外に降りて来ていて、僕がタクシーに乗り込む際の手伝いのサービスをしてくれていたような記憶がある。

ひかる君ときはぴーに別れの挨拶をした後で、僕やひかる君やきはぴーの見送りに出てくれたカフェのママさんに挨拶の言葉を伝えたのだろうか。
それともタクシーの中から手を振って別れたのだうか。
僕とひかる君ときはぴーを見送ってくれていたママさんの姿があったことは記憶していた。
マスターはいただろうか。
バタバタしていて、マスターご夫妻とのその日のお別れのシーンの記憶が曖昧になり思い出せなかった。
もう何度こうしてきららカフェから家路へ着いただろう。

ひかる君ときはぴーとのさよならに、少年の頃のような気持ちになった。
現代を生きる少年達である純粋な彼らとの触れ合いの中で、僕の透き通って行くような心は軽やかにあすを歌い出しているようだった。

そんな皆とのさよならをしながらだったのだろうか。
これも記憶が曖昧だけど、どのタイミングでだったか僕がタクシードライバーに告げた行き先に向かいタクシーは走り出していた。
僕はタクシーの後部座席のシートにもたれながら、まだライブの余韻が濃く後を引くような熱い思いを抱えあすを夢見ていた。


■ライブ告知
第12回 FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2020年1月19日
会場 きららカフェ
OPEN 12時30分
START 13時
入場料 ¥1000(コーヒー付き) 中学生以下無料

第13回 FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2020年1月26日
会場 きららカフェ
OPEN 12時30分
START 13時
入場料 ¥1000(コーヒー付き) 中学生以下無料

 

FRENCH TOAST de SHOW! 2019.12.15
演奏曲
1 MY WAY 夢遥か
2 BLUEな時代にSWING JAZZ
3 AFTERNOON LIVE
4 人生に幸あれ
5 旋風
6 窓際係長
7 全員集合 de SHOW!
8 母のバラード
9 PANDORA
10 SCRAP MOUNTAINの黄昏
11 ALL JAPAN
12 雨の日もSTEP
13 風になりたい
14 歌を友に人生の道のりを
15 野に咲く花のように
16 素晴らしき人生を
17 OH THANK YOU OH GOODBYE

怪我の功名

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※このブログ記事は少し前から書き溜めていたものです。


中村哲さんよ 安らかに

アフガニスタンで襲撃され亡くなられた中村哲さんが、どうか安らかにお眠り下さいますように。
今日のブログは、この冒頭でまず中村さんへの思いについて少し触れさせて頂き書こうと思います。
いいお別れの言葉が見当たりません。
急な速報による中村さんの死でした。
初めは命に別状はないとの知らせに一安心していました。
誰のことかも知らず、邦人の医師であることだけがその時僕に分かっていました。
普段余りテレビを観ないので、写真を見るまで中村さんのお名前とお姿が一致していませんでした。
以前テレビで拝見したことがある程度にしか知らなかった方ですが、その死がとても悔やまれます。
悲しく、寂しいです。
素晴らしい活動をされて来たことが、テレビを観た時によく分かる気がしました。
中村さんのなされて来た活動を思う時、どんな仕事をしているのであれ働くこととはこういうことなのだなというような、襟元を正されるような気持ちになります。
多くの方の幸せの為に頑張って来られたのでしょう。
僕などは本当に足元にも及びませんが、尊敬し見習うべきその生涯だったと感じています。
中村さん。
本当にどうもありがとうございました。

 

怪我の功名

11月最後の1日。


きららカフェに着くと、ライブのお得意さんの中の1人である青年が窓際の席に座っていた。
挨拶と束の間の会話を交わす。
青年は、ライブの時間を間違ってかなり早くやって来ていたようだった。
会話の中でそのことについて話をした。
青年のちょっとしたイージーミスだった。

きららカフェの奥の部屋には、こちらも早くからやって来てくれていた女性客が2人いた。
1人は9月16日のライブの時初めてやって来てくれた方で、この日は友達を誘って2人でライブを聴きに来てくれていた。
お友達とは初対面だった。
お2人と挨拶を交わし、早くやって来たことについて事情をお伺いした。
すると初めて来る場所なので早目に来たとのことだった。
なるほど。
道に迷えば遅刻してしまう。
先程の青年と同じで、こちらも大した理由でなくてホッとした。

そらから10月14日のライブに初めてやって来てくれた女性が、お知り合いになる女性と来て下さった。
お知り合いの女性とは僕は初対面だった。

女性は大抵、ライブを聴きにやって来る時に友達を一緒に誘って来てくれた。
その友達がまたライブを聴きに来たいと思って下さり、2度目のライブにやって来て下さるという循環が生まれて、自然とリピーターが少しずつではあるが増えていた。
メジャーとして何処かの事務所に入りお金儲けの為に使われることは避けたい僕にとっては、そのリピーターの増え方は理想的な状態だと思っていた。
今迄のメジャーでの活動のやり方は、これからの時代の生き方としては古過ぎると思っていた。
別の価値をミュージシャンとしての生き方を持って示せなければ、僕にとって音楽をやる意味はほぼないと考えていた。
多くの人が本当に歓びを持って社会に参加することが出来るようなこの国にして行く為にも、また世界中がそうなって行けるように取り組んで行く為にも必要なことだと信じていた。


穏やかな天候に恵まれた土曜日の午後。
第7回になるFRENCH TOAST de SHOW!が幕を開ける。

お客さんは5人だった。
ライブの時間を間違えて早くやって来ていた青年は、空き時間が出来たさっき、僕がやって来る前にマスターからドラムを習っていた。
どのタイミングでだったか覚えていないが、その話を青年やマスターから聞いたと記憶している。
マスターが機転を利かせ彼にドラムを叩いてもらい、空き時間を有効に使って楽しんでもらっていたらしかった。
その彼がオープニングナンバーでドラムを叩いた。
人生初ドラムだったのではないかなと思う。
以前に叩いたことが少しあったにしてもビギナーなんだけど、いきなりライブに参加して楽しんでくれていた。
カフェでのライブは、お客さん達との気楽でアットホームなこんな風なコミュニケーションを取ることが出来て楽しめることも魅力の1つのように思った。

ライブはいつものように進行した。
新しい曲を何曲かお披露目しようと思っていたけれど、作り掛けていた曲はどれも完成迄あと1つという所でライブ日を迎えていた。
今後また演奏したいなと思っていた。

この日のライブの歌の出来を振り返れば、40点くらいかもしれない。
非常に良くなかった。
生身の体が楽器なので色んな条件が絡み合い、油断すると声が出ないということになってしまう。
この日は声が出なくて、からっきし駄目な歌だった。
ベストな声の状態でライブにいつも望むには、かなり厳しく自己管理をしないと難しかった。
歌が良くないと聴く側は失望してしまう。
なるべく声が出ないという状況になることは避けないといけないと思っていた。
また次のライブを頑張るしかなかった。
体が楽器のボーカルとしての厳しい声の状態を整えるという闘いがあった。

この日のライブはフレンチトーストのメンバー全員が揃っていた。
ライブの途中で、11月10日の野外ライブで出会った親子がやって来てくれた。
ライブにお誘いさせて頂いていたのだけれど、本当にやって来てくれて嬉しい出来事となった。
少年は、あの日と同じように飛び入りでダンスを披露してくれていた。
歌も歌ってくれた。
小学1年生でなかなかいい度胸を持った少年だった。
空手を習っていて体格がいい。
やる気があって、頼もしいタイプの男の子のようだった。
きっとダンスをすることが今は楽しいのだろうなと思った。

フレンチトーストは歌物で行きたいから、余り沢山はダンスをしてもらう時間を取れないかもしれないけど、出来る限り協力し合える関係になれたらいいなと思った。
今は自然な流れに乗ってライブを楽しんでみたいと思っていた。

ひかる君は、この少年と初めて会った日に気に入り弟子にしていた。
ひかる君ときはぴーとこの小1の少年とで、フレンチトーストとは別のグループをもう1つ作れそうな雰囲気を僕は感じていた。
そうなったらそれはそれでいいかもしれない。
とにかくどんな形であれ、皆がそれぞれの良さを発揮して行ける社会を作ることが僕の真の目的だった。

FRENCH TOAST de SHOW!には聴く人ばかりでなく、人前で自己表現をしたい欲求を持った人も集まって来ていた。
自分のペースが崩れ過ぎない範囲で、その人達の気持ちにも応えて行けたらいいなと思っていた。
今回出会ったこの少年とは、フレンチトーストと彼とでお互いが引き立て合えるような状況の時にはコラボを楽しめそうだなと思った。

それからカフェのママさんの友達で、カフェの近所に住む馴染みの女性もライブが終盤に流れ込んで行く頃だったかにやって来てくれて、暫く時間を共に過ごした。
ママさんが連絡を取りライブに招待してくれたようだった。
孫がいても不思議のないシルバー世代だった。
フレンチトーストのメンバーを含め、きららカフェのお得意さん達が多く顔を揃えていた。
顔馴染みが揃い、和やかムードに包まれコミュニケーションを楽しんでいるような雰囲気だった気がする。
仲間意識については、良い面と同時に良くない面もあるものだと思うから気を付けないといけないとも思っていた。
1つの仲間意識は、それ以外の者を差別する意識にもなりうるからだ。
そうはならないピースフルワールドを僕は求めていた。


ひかる君がこの間髪をシルバーに染めたから、LINEで写真を送って来て見せてくれていた。
韓流スターのように爽やかに写真に収まり、イケメン度を上げている様子が伝わって来るようだった。
ダンス大会の予選を勝ち抜いていたひかる君は、次のパフォーマンスを披露するステージの時が近付いて来ていて、気合いが段々入って来ているのかもしれないなと想像していた。
少しずつテンションを上げて行こうとして髪を染めてみたのかもしれない。
ダンス大会で健闘して欲しかった。
ダンサーとしての人生を送ることが、今1番の彼の理想のようだった。
エンターテナーになりたいのだと以前夢を語って聞かせてくれていた。
ひかる君は、今後どんな風にその夢を実現して行こうとするのだろうか。
楽しみに思っていた。


この日は、きはぴーにライブで演奏する曲数を少なくさせてもらっていた。
流石にまだ小学生なので、歌の伴奏としての演奏が上手くなるにはまだ時間を掛けて練習する必要があった。
きはぴーが下手だからではない。
僕やひかる君もきはぴーくらいの歳の頃には、歌の伴奏としての楽器演奏は難しかった筈だと思う。
自然な成長の過程の速度がきっとあって、小学生くらいの歳では誰でも上手く出来なくて当たり前なのだろうなと思う。
きはぴーももう少しお兄ちゃんになれば、きっと上手く演奏出来る筈だと思っていた。
きはぴーには参加曲数を減させてもらった分、ドラムソロを叩いてもらって自己表現をする機会を持ってもらった。
ひかる君から電話があった時、きはぴーの出番を今回のライブでは減させてもらうけど、その代わりにドラムソロを叩くコーナーを作ることを予め伝えていた。
その話をひかる君からきはぴーが聞いていたかどうかは知らなかったのだけど、きはぴーは朝からドラムの練習をして来ていた。
お父さんがバンドマンをやっていた人で、だから家にどうやらドラムがあるらしかった。

きはぴーは僕がライブ後家に戻った頃、LINEでメールをいつもくれた。
ライブが出来て嬉しかった思いを伝えてくれていた。
よっぽどライブをするのが楽しかったのだろう。
僕もきはぴーくらいの歳の頃、少年野球のリトルリーグチームで試合がある日は同じような思いになりテンションが高くなっていた。
早朝から興奮してユニフォームに着替え、番犬に散歩をさせたりしていた。
実家は県道沿いにあり、その姿をたまたまリトルリーグチームの監督が車で通りがかり見つけて嬉しそうに後でそのことを話していたことがある。
監督は試合を早朝から楽しみにしている僕の姿を見て、監督としての張り合いを感じていたのかなと思っていた。
丁度今のきはぴーくらいの歳の頃のことだ。
たぶん5、6年生くらいだったのだろうと思う。
正確には6年だったような気がするが、記憶は定かではない。
6年だったとすれば、今のきはぴーと同じになる。
きはぴーは今、小学6年生だった。
そんな自分自身の体験があるから、きはぴーの気持ちは良く分かる気がする。
ひかる君が言うには、今日はライブがあると友達に話しているらしかった。
きはぴーのご機嫌ぶりをきららカフェにいる時、ひかる君がユーモラスに話して聞かせてくれていた。


ひかる君は、もう直ぐ18歳の誕生日を迎える。
たぶん17歳のひかる君とのライブは、この日が最後になるのだろう。
17歳のひかる君にありがとう。
ひかる君がフレンチトーストのメンバーとして加わってくれたのは、今年の1月のことだった。
随分久しぶりとなるセッションをして、以前よりドラムの腕を上げていることが歴然と分かる演奏を披露してくれていた。
その時、ひかる君がフレンチトーストのメンバーになってくれた。
あの日のドラマーとしての歓びに溢れたひかる君の姿が、瞼に熱く焼き付いていた。
17歳の青春の息吹が感じられて、中年の僕には爽やかで眩しい姿だった。
まるで映画「フィールド・オブ・ドリームス」の中に出て来るルーキーのようだった。
ルーキーが憧れのスター選手と野球が出来ることへの感動を覚えている姿が描かれていて、観ていてワクワクするストーリーだった。
ひかる君と僕との関係はその映画の話の設定とは違うけれど、ひかる君がルーキーであり、バンドに少なからず憧れを持ちやりたかったのではと思う点では、映画の中のルーキーと置かれていた状況が近く同じようなものだったのかもしれないなと思う。
僕とセッションをしてドラムを叩き、歌の伴奏を実際に務めてみて感動しているように見えた。
ひかる君のその純粋さが僕は気に入った。
彼とならバンドを組んでもいいなと思った。
バンドとしての活動は仲間がいないと当然だが出来ない。
ひかる君はドラマーとしての自分の腕を生かし、きっとバンドでドラムを叩きたかったのだろう。

12月4日で18歳になるひかる君。
17歳という輝ける青春の日々を生きるひかる君と知り合えて、この約1年の間一緒に何度もステージに立ちライブが出来たことを心から嬉しく思っていた。
気遣いの出来る、真っ直ぐで優しい少年だと思う。
ひかる君はダンサー志望で、予選を突破し間もなく名古屋での大会が控えていた。
複数のメンバーと踊っているらしかった。
ドラムは0歳から始めたらしい。
ダンスの夢も大切にして欲しいし、ドラムもずっと大切にして欲しいなと思う。


フレンチトースト AFTERNOON LIVE


マスターは午前0時のMOONLIGHTでコンガを叩くのが楽しいらしくて、演奏のリクエストをしてくれた。
ひかる君にはワイヤーブラシでドラムを叩いて欲しいことを伝えていた。
その時、ひかる君はマスターの頼みは断れないと言っていた。
小学校の卒業式の時には、マスターの服を借りて式に望んだひかる君の姿があった。
僕はそのエピソードを聞いて、マスターとひかる君の縁の深さを感じるような思いになった。
マスターは、自分の服を着て卒業式に望んでくれたひかる君のことをとても嬉しく思っている様子だった。
孫に対する愛情にも似たマスターの温かな気持ちが、見ていて伝わって来るようだった。
ママさんもマスターと同じように喜んでいるようだった。
マスターご夫妻の人柄が良く出ているエピソードだなと思う。
愛されて育ったのだろうということが分かる気がする。
人はされたことを人に自然とするものだろうから。
そんな懐かしいエピソードをふと想い出す。
フルコーラスは演奏しなかったが、この日こうして午前0時のMOONLIGHTを演奏することとなる。
パーカッション奏者が楽しめる一曲なのだろうなと思う。


カフェのママさんが作っショルダーバッグを、僕はこの日購入した。
着物の生地で作ったいい品物だなと思う。
ママさんはバッグやエプロンを作る時間が楽しいらしかった。
深夜1時迄ミシンを使うことがあるようだった。
物作りの楽しさを僕は良く知っているので、ママさんの熱中する気持ちが分かる。
5月に大腿骨を骨折し、いち時は元気がなかったように見えたママさんが生き甲斐を見つけられて良かったなと思っていた。
カフェテラスでホースに躓き転んでの骨折だった。
なのでマスターがまた転ばないようにと、ママさんの入院中にカフェテラスに置いてあったママさんの鉢物を撤去した。
ママさんは花が好きで、退院後は鉢物がなくなり落胆し過ごしていた。
マスターはママさんがいない内でないと手放せないことを分かっていたようで、敢えてママさんに相談せずに鉢物を取り払ったらしかった。
ママさんのことを心配していたからこそなのだろうし、マスターはきっとママさんが元気でいてくれないと生きて行くのに自分自身も辛かったのだろうなと僕は傍で見ていてそう思った。
1つの夫婦愛の形の表れなのだろうなと思う。


バンドメンバーである仲間達やお客さん達と楽しい時間を過ごせたことに僕は感謝した。

怪我の功名。
そんなライブになったかもしれない。
声が出ないから合唱を取り入れたり、皆がそれぞれ出来るパフォーマンスをしてライブを何とか作り上げた。
今の日本社会に必要な要素だったかもしれない。
何処もかしこも社会システムが破綻していて、皆で人間的な力を発揮して機転を利かして協力し合わないと社会が上手く機能を果たさないような現代の状況に、この日のライブを重ね合わせ回想してみる。
僕の声が出ずライブが上手く行かない時に、ある意味皆で取るべきその協力態勢を実践して見せたとも解釈していいようなライブになったのかもしれない。

美しく空が黄昏てゆく頃、僕は穏やかな気分できららカフェの扉を出た。
お客さん達はもう既に先に帰っていた。
ひかる君は、僕が帰ろうとするまで先に帰らず律儀に気を使う姿を見せる所があった。
扉を出ようとすると、開けて先に行かせてくれようともするジェントルマンだった。
マスターもジェントルマンだけど、ひかる君もその流れを受け継いでいるような所が見受けられた。
確かサッカー少年という歴史も持っていたひかる君は、先輩は立てるスポーツマンみたいな所があるなと思っていた。
皆とのさよならの別れ際に、カフェの扉の前辺りにいたひかる君ときはぴーに声を掛けた。
その時、ひかる君にきはぴーの演奏のレッスンを頼んで別れた。


きららカフェでの何気ないけれど満ち足りた時間は、この日こうして終わって行った。

 

FRENCH TOAST de SHOW! 2019.11.30
演奏曲
1 DREAM COME TRUE
2 BLUEな時代にSWING JAZZ
3 STAND UP JAPAN
4 人生に幸あれ
5 旋風
6 母のバラード
7 〜ナレーション〜
フレンチトースト
8 〜ドラムソロ〜
同窓会
9 PANDORA
10 〜木原徳大のドラムソロ〜
-合唱-
風になりたい
踊るポンポコリン
11 STAND BY ME -ひかる君のボーカル-
12 -メドレー-
午前0時のMOONLIGHT
野に咲く花のように
素晴らしき人生を
OH THANK YOU OH GOODBYE

 

■ライブ告知
第9回 FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2019年12月28日
会場 きららカフェ
OPEN 12時30分
START 13時
入場料 ¥1000(コーヒー付き) 中学生以下無料

第10回 FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2020年1月5日
会場 きららカフェ
OPEN 12時30分
START 13時
入場料 ¥1000(コーヒー付き) 中学生以下無料

第11回 FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2020年1月13日
会場 高島チャペル
OPEN 12時30分
START 13時
入場無料

ふれ愛ランドLIVE終了 〜人生にありがとう〜

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ふれ愛ランドLIVE終了 〜人生にありがとう〜

24日は、広島県青少年育成アドバイザー協議会が行ったふれ愛ランドでのアドバイザー養成講習会でライブをさせて頂きました。


この日は別の場所であったライブにもお誘いを頂いていたのですが、広島県青少年育成アドバイザー協議会からのライブのお誘いをお引き受けするという選択をしてのライブとなりました。
選択の際の理由は、僕の代わりのミュージシャンでは成立しない内容のお話であるように感じたからです。

ライブは無事に終了しました。
ライブレポートとしてこの日のことを散文に纏め記録したので、YouTubeにアップしたこの日のライブ映像と一緒にご紹介します。
皆様に楽しんで頂けたら嬉しいです。
ライブに関わって下さった皆様、本当にどうもありがとうございました。

 

人生にありがとう

11月の寒さの和らいだ日曜日の午後。
小雨が一時寂しげに空を舞う中、僕は自宅からタクシーで会場へと向かった。
洗いざらしの髪にブラックジーンズを履き、長き月日着込んだシャツを2枚重ね着していた。
決して経済状況が良さそうでも、肩書きのある地位にある人間でもなさそうな身なりをしていた。
ギターケースと共にタクシーの後部座席に行儀良く収まり、車窓に流れ行く街の風景をぼんやり見つめたりしていた。


若き日の僕は都会にグッバイを告げた。
虚飾のアスファルトジャングルに。
18歳の春プロミュージシャンに憧れ夢を掴もうと上京して、夏になった頃には何だか祖国に帰る手立てすら持たぬ玉砕国の兵士のような気持ちになっていた。
社会的に生き残って行く術が見つけられないでいたからだ。
資本主義にさらばを告げ都会を離れたけれど、かといって田舎にも自分がミュージシャンとして生きて行く為の土壌はないように感じていた。

僕の田舎は災害が少ない恵まれた土地柄だった。
人と人とが助け合わずとも生きて行ける環境があった。
そういった環境では、悲しいかなたぶん人はおごってしまいがちだ。
きっと自分一人で生きていると勘違いしてしまうからなのだろう。
自然の力によって命が奇跡的に続いていることに思いが至ることは難しい、現代社会の構造があるように思った。
芸術や文化に対する感性が鈍った風土を、僕は自分の故郷に対して強く感じながら育っていた。
田舎の自然はとても愛しく感じていたけれど、人間社会との心の折り合いが全くつけられないで苦しんでいた。
都会に行っても田舎に帰っても、結局駄目だなと感じながら過ごしていた。
ただ田舎には自然という名の神が住んでいた。
それが、若き苦悩の日々に七転八倒する僕が命を失わないでいられた理由だったように思う。

人はみな孤独な存在だ。
一人で生まれ、一人で死にゆく定めなのだから。
そして、本当には誰も自分のことを理解してくれる人などはたぶんいない。

お金儲けだとか出世だとか、社会の過酷な生存競争の渦巻く嵐のような毎日に僕はほとほとうんざりしていた。
僕は自分の心の中に聴こえて来る音楽を、神の言葉として聴いていた。
誰にも話せないような内容の話だった。
気が可笑しいのかと思われるのが落ちで、この世の中そんな精神の世界を知る人などには余り出会うことはなかった。
ミュージシャン志望を語れば、まず大方の人に夢は否定された。
君には無理だよというメッセージが、ダイレクトに言葉にせずとも届いて来た。
大きな夢に懸けてみろよと言ってくれる大人は殆どいなかった。
僕の将来を案じての優しさからだったのだろうか。
僕のことを本当に気に掛けてくれていて、そんなに深く思いやってくれていたからだったのだろうか。
たぶんそれは違う。
人は自らの持つ信念体系の下に、自分の価値観から他者へのアドバイスをしているに過ぎないのだろう。
自分を信じていないと、他人の夢なんて本当には心から祝福し応援なんて出来ないのではないか。
寧ろ夢を持っている人間を妬ましく思うかもしれない。
自分を見捨てた代償に。

夢を追う日々の中で、もう死にたいと思うのはほぼ毎日のことだった。
だけどふる里の自然の力をもらって死ぬことはなかったのだと思う。
そういった運が僕の人生にはいつもあった。
生きないといけない何かが、きっと僕にはあった気がする。
それは自分の為ではなくて、たぶん誰かの為に。

社会に出てやって行くことは立派になったのではなくて、寧ろ駄目な大人になることのように感じていた。
社会的矯正を受け入れるという純情の敗北を感じていたからだと思う。
僕は芸術の神に使え生きて行きたいと強く願っていた。
平成の間中、僕はシンガーソングライターとしての長き下積みの時代を生きた。
約30年の歳月が流れ去って来た。
そして僕は、もう一度誰かの為に今度は歌を歌って行こうと思った。
人生にありがとう。
心からそう思ったから。


タクシーの後部座席のシートで寡黙に目的地を目指し物思いに耽っていた。
この日のライブは仕事的なニュアンスがあった。
ニーズにお応えしてのライブだった。
昔世界は全て敵のように思えていた。
自分の音楽だけが頼りの青春だった。


青少年育成。
そんなことに取り組まれている団体とのご縁を頂いての、この日のライブとなっていた。
僕は子供の頃から社会的矯正を嫌い、自分の生きる道を探してやって来た。
たぶん歌があったからやり通して来れたのかなと思っている。
随分無謀な生き方だった気がする。

物を作る人間はまるで子供のような純粋な精神を持ち続けるべきであるし、またその心を蝕む全てのものと生涯を通して断固闘わなければならない宿命であると考えていた。
まともな大人になったら一貫の終わりだと思っていた。

社会は子供達を常に矯正し続けている。
こうあるべきだという価値観に従わせようとしている。
正しい教えもあれば、跳ね除けた方がいい大人の理屈もあるだろう。
社会的ルールを破り不適切な行動を取る子供達は、大人の本音を見抜こうとしているように思う。
分かったような理屈で上から押さえ付けて来るような大人には、いつの時代も子供達の多くが反発心を覚えるに違いなかった。
結局は、矛盾する社会に心を閉ざして自分を守っているという生き物としてとても真っ当な反応だったことだろう。
大人になるとは本当に大変なことだ。
諦めて流されて行くことを大人になると定義している訳ではない。
世の中はそのことを大人になることと考えていたように思うけど。
それは違う。
自分が自分らしく生きて行く術を見つけて、矛盾する街の中で愛を伝えられるように成長すること。
それが本当の大人になるということではないかなと僕は考えていた。


18歳の時プロミュージシャンに憧れて上京した僕の青春の物語は、一体今何を僕のこれからの人生に問い掛けて来るだろうか。
結局、2年東京で頑張ったけれど、理想はことごとく敗れ去って行った。
矢沢永吉の成り上がりの時代じゃないことを理解した。
ビートルズにはならない。
僕の出した結論だった。
資本主義社会の奴隷になること。
それが成功と呼ばれていた。
ならば僕はそんなものはいらない。
この時代にはもうロックの星はいないし、新たに誕生もしない。
それが分かった。
だから帰郷することにした。

時代は流れた。
平成はどんどん社会が衰退して行くばかりの運命の中にあった。
僕になど出番はなく、陽の当たる場所へはどうしても辿り着くことが出来なかった。
運命だと思った。
そう予め決まっていたように感じていた。
僕はじっと耐えた。
力を蓄えて根を大地深くに張ることだけを考えるように努めていたかもしれない。

表現者とは、基本的に社会不適応者であるように思う。
矛盾だらけの社会に上手く順応してしまったら、表現は死ぬに違いない。
成功とはそういうことだ。
つまらない話だと僕は思った。
ちっぽけでくだらな過ぎると感じていた。
それでも成功を求めようとする意味は、僕には見い出せなかった。

人の心の感受性を大切にすること。
それが成功には付いて来ない。
古い時代の価値観だと思ったけれど、案外時代は長くその基準を手放そうとはしなかった。
元号は令和に変わった。


愛する故郷の山間の道をタクシーは進んだ。
人里離れた山奥迄走り、やがて池の脇の坂道を上った。
運転手が道を知らなかったので、知っている僕が案内役を務めていた。
池の脇の坂道を上り始めてから会場迄は、大した距離ではなかった。
門を通り抜けて中庭でタクシーを停めてもらうと、料金を支払いタクシーを降りた。
この会場に来るのは丁度二週間ぶりだった。
野外ライブをして以来のことだ。
初めて入る建物が目前にある。
その日の会場は、その建物と隣接する研修室になっていた。
研修室へは目前にある建物から入るらしかった。
二週間前に来た時に、野外ライブを世話してくれた内山さんという男性に前もって会場への行き方を教えてもらっていた。

建物の正面玄関の入り口は自動ドアになっていた。
中に入ると右側に下駄箱が並び、上履きに履き替えるようになっていた。
上履きはビニール製で傷み掛けていて、使用した歳月の移ろいが感じられた。
近代的な建物の割に、下駄箱とスリッパはもっと古い時代の物のように見えた。
下駄箱は木製だった。
塗装剤は塗られていないのか光沢はないようだった。
人気のない受け付けを過ぎて、開け放たれた半分のドアの方から中庭の通路へと出る。
そして隣接する研修室のこちらも半分の開け放たれたドアの方から中に入った。
会場は、そのドアを抜けて直ぐの一番端の一室のようだった。
長い通路が続き、向かって右手側に各研修室が幾つか学校の教室のように続いているようだった。
僕がライブ会場になる研修室なのだろうなと目星をつけた一室からは、男性で老人のような声が聞こえていた。
講義中のようだった。
僕のライブまでは後二十分くらいあった気がする。
今何時かとiPhoneの時刻を見た記憶があった。
人気のない長い通路。
ライブ迄の時間を静かに待ち佇んでいた。

講義らしき時間が終わったのだろうか。
研修室の中から今日のライブを企画してくれた内山さんの声が聞こえた。
やっぱりこの研修室で場所が合っていたことが分かった。
次は僕のライブの時間であることを、内山さんが講習会の参加者に伝えていた。
そして講習会は一旦休憩に入る。

研修室に入ろうとしていると、内山さんが先に中から出て来た。
この日初めての内山さんとの顔合わせとなり挨拶を交わした。
内山さんはゲストである僕を研修室へと招く言葉掛けもしてくれていた。

研修室内は、学校の大きな教室とチャペルの礼拝堂とを足して二で割ったようなスペースだったなと僕は後から振り返る。
ライブの支度を進め、ギターケースからギターを取り出しチューニングをした。
張り替えて間もない弦は、テンションがまだ不安定で音が狂い易かった。
ライブの撮影の準備もした。
百均で買ったiPhoneの観賞用らしいスタンドを持参していて、そのスタンドをパイプ椅子に置いた。
それからそのスタンドに、今度はiPhoneを立て掛けて置いた。
その後のことは、iPhoneのビデオ撮影録画ボタンをONにしたので全て動画として記録され残っている。


フレンチトースト ふれ愛ランドLIVE 2019.11.24


ライブは成功だったと思う。
ライブを撮影したビデオの映像には映っていない、講習会の参加者の皆さん達のライブ中の様子がドラマのように僕の視界に広がり思い出の記憶となっていた。
ライブ中は敢えて聴いてくれている人達の姿を見ないようにしていた。
見ると歌詞が出て来なくなたっり、ギターの演奏をミスすることが多かったからだ。
集中力が散漫になり、間違いが増えることは明らかだった。
だから時折見ただけだったけど、ライブを聴いてくれていた人達の姿が記憶に残っていた。

この日のライブの為に、内山さんとLINEのメール等で何度も連絡を取り合った。
二週間前のライブもそうだったが、ここ最近これで三度目になる内山さんにお世話になってのライブとなっていた。
内山さんは、広島県青少年育成アドバイザー協議会の副会長をされていた。
僕の母の知り合いというご縁から、今年の夏に母が内山さんにお願いしてフレンチトーストライブを聴きに来てもらった。
それが僕と内山さんの出会いの始まりだった。
フレンチトーストライブを気に入ってもらえて、その後ライブを企画して下さるようになったという経緯があった。

歌詞やライブをするに当たっての思いや各楽曲を演奏する上での思い等を、メールで送るように内山さんから頼まれた。
ライブの時にはそれらが印刷され、研修会の各参加者の手元に届いていた。
いつもよくライブを聴きに来てくれている講習会の部外者になる方達も、僕のライブの時間は参加してライブを聴いて頂けるように内山さんが取りはからってくれていた。
歌詞があると歌の内容が良く分かることについて、ライブを聴きに来てくれていたいつもの方からライブ後にコメントをもらった。
内山さんやその他の方達ともライブ後にお話をさせて頂く機会があった。
内山さんはその時の話の中で、ライブを涙を流して聴いておられた方がいたことについて教えて下さった。
ライブ中に楽しそうに聴いて下さっていた方の姿もあった。
内山さんもライブを喜んで下さっていたようだった。

研修室は床に木が張ってあるようだった。
木の床は、材質としての性質上音の響きが良くなるのではないだろうか。
それに部屋の形状や床以外の材質の影響もあったのかもしれない。
研修室はとても音の響きが良かった。
静かにライブを聴いてもらえる環境が整っているならば、音響設備がなくても生音が部屋中に良く響きライブをする上での音の問題はなかった。

研修室の窓の向こうには、二週間前にライブをした場所である中庭があった。
窓の方に目をやると、フレンチトーストのバンドメンバーであるひかる君ときはぴーとのあの日のライブのことが蘇って来た。
ひかる君は、移動手段の問題があり今回のライブには参加していなかった。
たぶんきはぴーも同じ理由だったのではないだろうか。
きはぴーにはひかる君がいつも連絡を取ってくれていた。
まるで弟の世話を焼くお兄ちゃんといった感じだっただろうか。
もう一人いるバンドメンバーであるきららカフェのマスターも、今回のライブには参加していない。
マスターは、基本的にきららカフェでのライブの時に参加というライブ参加のスタンスになっていた。
フレンチトーストの他のメンバーはおらず、僕一人が参加したギターの弾き語りでの今回のライブが無事終了した。

その場にいた人達との話や挨拶も済み、内山さん達が研修室の後片付けをしている途中で、僕は入って来た時と同じ研修室の前方のドアから退室した。
研修室には、学校の教室のように前方と後方に二箇所ドアが付いていた。


研修室を出た後、元来た通路を逆戻りして玄関前の人気のない受け付け辺りでタクシー会社に電話を掛けた。
行きでも使った馴染みの会社だった。
帰りのタクシーの手配が済み、僕はライブを無事終えることが出来た安堵感を胸にiPhoneの電話を切った。


ふれ愛ランドLIVE 2019.11.24
演奏曲
1 STAND UP JAPAN
2 人生に幸あれ
3 旋風
4 STAND BY MEは風に乗り流れて
5 〜ナレーション〜
フレンチトースト
6 CHALLENGE
7 素晴らしき人生を
ENCORE
8 素晴らしき人生を


■ライブ告知
FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2019年11月30日
会場 きららカフェ
OPEN 14時30分
START 15時
入場料 ¥1000(コーヒー付き)

ふれ愛まつりLIVE終了 〜香港の今〜

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ふれ愛まつりLIVE終了 〜香港の今〜

10日の日曜日は、ふれ愛まつりというイベントに参加させて頂きライブをして来ました。


今回のライブはこのブログでの告知が間に合わず、お知らせなしでの当日を迎えました。
お祭りの賑わいの中での音響設備のないストリートライブといった環境でもあり、ゲリラライブ的なノリでの参加になりました。
音楽を聴く環境としては賑やか過ぎることになることは予め予想出来ていたことだったので、普段ライブを聴きに来て下さっている方達にも敢えて余りお誘いはしませんでした。
秋晴れのとても気持ちのいいお天気に恵まれ、沢山の来場客が行き交う中各催し物が取り行われていました。

フレンチトーストのバンド編成は、ひかる君と木原君がきららカフェのマスターから借りて来たカホンを1曲毎に演奏を交代しながら叩いてくれるという形になりました。
2人共ストリートライブのようなスタイルでのライブは初体験とのことでした。
僕はといえば、先月末の呉でのライブ同様にお祭りでのライブは昔やっていた懐かしいストリートライブを思い出すシチュエーションだなと思いながらの参加となりました。

木原君のお母さん方のおばあ様も来て下さり、初めてお目にかかりました。
ご挨拶をさせて頂き、暫く立ち話をさせて頂くことが出来ました。
ライブに飛び入りで踊りまくってくれていた小学1年生の男の子もいました。
その子のお母さんがいて少し立ち話をさせて頂くことが出来ました。
Facebookできららカフェさんでのフレンチトーストの活動を見て下さったことがあるそうで、ご自身もバンドをされボーカルをしていたことがあり、音楽にご興味がおありといった内容のお話を聞かせて下さっていました。
もう2人お子さんがいて、たぶん皆ご兄弟だったのかなと思っています。

今回のライブは、先月末にあった呉でのライブ同様に広島県青少年育成アドバイザー協議会の内山さんからお誘いを受けてのライブでした。
スタッフの皆様のご協力の中、無事にライブをさせて頂くことが出来たことを有り難く思っています。
ライブ後にスタッフの方達とも少しお話をさせて頂くことが出来ました。
ありがとうございました。

街のお祭りの中でのライブを、ひかる君と木原君と3人ですることが出来たという日本の平和な日々に感謝したいです。
天皇皇后両陛下の即位をお祝いしての華やかなパレードが取り行われていた世の中で、フレンチトーストの活動が皆様からのご支援があることで出来ているということについて思いを馳せてみています。
何気ない毎日を普通に送れるということこそが、人生の最高のギフトなのかもしれませんね。
そんなことを思います。


日本の穏やかな休日とは裏腹の世界の現実について、同時に思うことがあります。

隣国のことで今とても気掛かりなのは香港のことです。
一見平和な日本の休日を過ごしながら、僕らの意識にはどれだけそのことがあったでしょうか。
香港ではデモが起きています。
ニュースで報道されているので皆様ご存知かとは思うのですが、このことについてのお話を現在起きている世界の出来事の1つとして僕自身が記憶しておく意味もあり、ブログに書き残しておきたいと思います。
勿論、皆様と思いを分かち合う目的がまずあってのことなのですが。

民主化の為に人々が立ち上がり、権力を奮う体制に反発し講義活動が続いています。
催涙ガスが発砲され、実弾までもが発砲されました。
若者が腹部を撃たれる衝撃的な映像を僕はこの国の平和に埋もれるような暮らしの中で見つめていますが、何も助けてあげることが出来ないでいます。
悲しく悔しい思いです。
日本に支援を叫ぶメッセージが届いています。
香港の民主化の為に自分に出来ることをやらないといけません。

警察官が普段は立ち入ることが許されていない大学の敷地内に入り、デモに参加する学生達を排除しています。
事前に警察側と校長との話し合いが持たれていたようですが、警察側がその時の約束事を破ったというような情報が入っています。
校長も含めて学生達に催涙ガス等による攻撃がなされ、鎮圧が行われているそうです。
長期化するデモの鎮圧をする間に、警察側は人としてのまともな感覚を失い冷酷無情になって行っているような気配を感じる思いで、僕は香港で起きているデモ鎮圧の様子が撮影された映像を観ていました。
メディアや一般市民に向け催涙ガスがまかれる様子も目にしました。
社会から批判を受けたことに対する警察側の怒りの表れなのでしょう。

平和を守り築くことの難しさを感じます。
獰猛な動物のように街を巡回するピストルを持った私服警官は、とても暴力的で荒んでしまっているようでした。
こうなるとデモ活動は過酷に違いありません。
死者も出ていて、命懸けの民主化を叫ぶデモが続いています。
これは香港の素顔であり、そしてまた日本や世界の素顔だとも言える現実だと思います。
日本に暮らしていて、呑気にお祭りでライブをしていられる僕のするべき役割について考えています。


今の時代はメッセージソングが流行りません。
安保闘争に敗れて以来のこの国の音楽史の流れがあります。
体制に反発してみても無理なので諦めた時、その時代の流れが生まれたように思います。
そして政治的な事柄などについては考えず、時代に流され生きる国民性が定着して行ったように思います。
やがて大切なことが何だったのか、純粋に生きることを問うその思いは人々の心の中から薄れ消え去っていったということのように思っています。
そして現代に辿り着きました。

これはそういった純粋な人の感性が失われて行ったことに対する1つの例え話です。
街の河川が塵だらけの街で、環境への意識を持つ呼び掛けをしても届き難い現実があるのは想像するに難しいことではないと思います。
そのことを街中の人が余り重要視していないというのが理由になると思います。
感性が合わないというよりは、感性自体が育っていないということを意味しているように思います。
メッセージソングが流行らない理由は、そういった感性の欠落が原因なのではないでしょうか。
僕にとっての音楽は、少年の頃に曲を作り始めた時から自然とメッセージソングを作って来ました。
意識してそうした訳ではありませんでした。
時代との解離の意味を見つめながら、この街で自分らしく生きて行く道を探しています。

僕の音楽は、たぶんお祭り向きではありません。
陽気に皆で、ただ盛り上がり過ごす為の音楽ではないからなのではないかなと思っています。
今迄の長きライブ活動の中で、街に出て行き歌っている時には全く異次元空間に自分が佇み孤立している現実を感じているような瞬間があった気がします。
そういう時には、何だか僕の叫びなどはこの国の平和に埋もれてしまい誰にも届かないような感覚になりました。
そういった時代との自分の生き方の食い違いを、ライブをしていてダイレクトに感じている気持ちになる僕がいます。
違うのかもしれませんが、これは正直な思いです。
日本社会の街の風景を見つめていて、時代の危機を感じる思いになるのです。
メッセージ性のある歌が皆無である現代の意味を、僕は1人考え続けています。

僕はこの国によって育み育てられて来たので、祖国に対してお返しすべき恩があります。
祖国への恩返しの意味があり、感謝の気持ちから現実に折り合いをつけて歌い出すしか今は道がない気がしています。
もっと歌が上手くなって、もっともっと素晴らしい歌を作り歌うことが出来たらどんなにいいだろうと思っています。
僕の思いを、ちゃんとこの国に生きる仲間である皆さんの心へと届けられるようなそんな日がやって来ることを願っています。


国という概念自体が大きく変わって行く時代の流れを感じています。
それは家族という概念にも通じるものだと思います。
友達や仲間、あらゆる組織も今迄僕達を繋ぎ留めて来たものが意味を失い、1つの幻想が消え去った現実を見つめている僕がいます。
フレンチトーストをやっていて、バンドメンバーになってくれている仲間にしても社会的な繋がりではなく、もっと自然な成りゆきの中での集合体として今機能しているように感じています。
こうあるべきという矯正は働いておらず、ただ単に心地良くて楽しいから集っている状況だなと思います。
無理矢理に結束した訳ではありませんでした。
無理が効かなくなった組織の姿が現実に表れているように思います。

これは個をまず重視した上で、その個と個が繋がり合った新しい社会モデルの形の始まりを予感させるようです。
国家の破綻や大企業の倒産。
過去のあらゆる社会モデルの失墜の意味は、きっとこの新しい時代の流れに関係しているような気がします。

僕がフレンチトーストの曲を作りストリートに出て歌う時、全く興味関心を持たない人と勝手に集まって来る人とが当然ですがいます。
僕の歌には全く社会的矯正力はないので、それがとてもいい所なのだということに気付いた気がします。
勝手に歌い演奏していることに意味がある気がします。
どこかから来た何者かではもう時代遅れな気がしています。
僕は何者かになる生き方はしたくない人間なのだなと思います。

流行りの歌をカバーして歌う時、少なからず皆さんが耳を傾けるようにとある種の矯正ではないですが、1つのそれに似た力が生まれる気がしていました。
カバーをしているミュージシャンは沢山いますが、その際皆さんに楽しんでもらいたいというだけの純粋な思いからしているだけかもしれませんし、そうではないこともあるかもしれません。
ミュージシャン側の都合の為に矯正力を働かせることは嫌だなと思っています。
僕はひたすらに純粋なものを追い求めています。

矯正というような概念について等には全く関心がなくて、発想することさえしないであろう自然の中で暮らす動物達の生き方にこそ、何か見習いたい大切な生き物としての美しく威厳に満ちた姿を感じる思いになります。
たぶん平和というものの営みに並行したようなサイクルが、このような生き方にはある気がしています。
何をもって立派とするのか、人間の持つ価値観自体が根底から覆されて行く時代の流れを感じています。

音楽をするなら東京。
一流ならばこう。
音楽の世界に存在していたそれらはの価値は全て意味を持たなくなった気がします。
まだ存在しているように感じているならば、それは単に幻想を見ているだけなのかもしれません。
フレンチトーストの音楽を楽しんでくれる人と繋がり合い、新しい時代のパラダイムの上でより自由に人間らしく交流しながらエンジョイして行けたらと思っています。
矯正が全く働かない音楽を生み出し歌い奏でることが、僕の目標なのかもしれないなと思いました。


後日、くれ福祉まつりやふれ愛まつりでのフレンチトーストライブを企画して下さった内山さんから電話がありお話をしました。
内山さんは、また次のフレンチトーストのライブを企画して下さっていてその件での電話連絡でした。
ライブのお誘いを頂けて有り難い話だなと思っています。
いいライブが出来るように頑張ろうと思っています。

その時の電話での僕との会話の中で、内山さんはくれ福祉まつりとふれ愛まつりでのライブをスタッフとしてのお立場で経験されてみて、歌をストリートで街の人に届けるということの難しさを実感されていたようでした。
ライブをする環境として申し訳なくお感じになられておられて、お詫びの言葉を言って下さっていました。
そう言いたくなってしまうようなライブの状況があったことは事実だと思います。
ですがそれは内山さんが悪い訳でも誰が悪い訳でもありません。
これは音響設備のないストリートでライブをする際に、避けられない問題ではないかなと僕は思っています。
ミュージシャンとしてそれなりの力があったとしても、大きな音が溢れている状況ではなかなか音楽をストリートを行き交う人達に伝えることは難しいだろうなと思います。
ましてや無名でオリジナルを演奏しているとしたら、尚更伝わり難いかもしれません。
音楽の良さがちゃんと分かってもらえるような環境作りから、手間暇をいとわずするしかないのかなと考えてみています。
ミュージシャンに力量があれば、音響設備が整っていればたぶんそれなりに共感してもらえるライブが出来るような気がします。
それでもメッセージ性が高くなる程にウケることは難しいのだろうなという気がします。
ストリートでライブをする際は、音響設備があった方が絶対にいいことだけは確かだと思います。
屋内でも通路等雑談をしながら人々が行き交うような場所でのライブがかなり過酷となることは、過去にやって来たライブの経験から良く知っています。
ライブを聴くという目的に基本的に合っていないような場所では、困難が自然に生じてしまうのだと思います。
そういう場合は特に環境作りをして、ライブを聴くに相応しいシチュエーションを用意しなければならないような気がします。
手間が掛かることなので、なかなか大変なことに違いありません。
今回のようなライブをまたする際には、音響設備の問題が課題として残りました。
僕は今回のようなライブはかなり久しぶりのことで、その状況の中でのライブの大変さを改めて痛感しています。
長年ストリートやライブハウスでのライブを僕は沢山やって来ているので、今回のような状況になるであろうことは予測はしていました。
なので覚悟の上での参加でした。

とはいっても何もかもが悪かったという訳ではありません。
まずフレンチトーストのメンバーが楽しんでライブを一緒にしてくれていました。
僕の息子であっても可笑しくない程に歳下になる彼らが、バンドメンバーとして一緒に活動してくれていること自体嬉しい話です。
バンドを一緒にするなら同じ歳くらいの仲間との方が気が楽だったり楽しいということになるケースが普通かなと思うのですが、親程歳上の僕と一緒に演奏活動をしてくれています。
ライブに参加して下さったお客さんとの出会いがあったり、広島県青少年育成アドバイザー協議会のスタッフさん達の協力を頂けたりしたライブをすることが出来て幸せに思っています。
ライブのお客さんとして出会わせて頂いたダンスをしてくれていた小学1年生の男の子のお母さんと、暫くの時間立ち話をするという触れ合いもありました。
今月末にあるきららカフェでのフレンチトーストライブにお誘いの声を掛けさせて頂いたり、LINEでお友達になってもらったりもしました。
もしかしたら厚かましかったのかもしれないのですが、気さくにお話しをして下さり嬉しい出会いでした。
こんな風にして音楽を通じて人の輪が少しずつでも広がって行くといいなと思っています。
内山さんに先月末の呉でのライブの時お願いしていたのですが、テントにシートを吊るして3方向を塞ぎ防音対策をして下さっていたことを思い出します。
僕からの要望に応えて下さってのことで、有り難いことだなと思いました。

僕がやっているのは、音楽を通してのデモ活動のようなものだなと思います。
日本人の多くはデモをしない民族になっています。
安保闘争に敗れて以来の話です。
どうせ無理だと諦めてしまったのです。
それなりの幸せを国や学校や社会から与えられるのならば目を瞑ろう。
安保の正体をしっかり明かして議論し尽くさなければなりません。
その流れに向かって時代が舵を切れるように努力することが、ロックミュージシャンが負うべき義務だと僕は思います。
その義務を果たす為には、誰も見向きもしないような草の根的で地道な活動をこつこつと続けて行く必要性があると考えています。

路上で歌っていれば、そこで歌うしかない程度のミュージシャンなのだという先入観からの眼差しを街を行き交う人々から向けられるのは止むを得ないことのような気がします。
社会では感情や思考を生み出すプログラムとして様々な価値観を無意識の内に打ち込まれ人はみな育って来ているので、無自覚にそのような条件反射を繰り返しているのだという気がします。
実際にまず殆どの場合その通りであるとも思います。
テレビで観たことのある人は神に近付くのだと思いまし、全国ネットのラジオから流れて来た曲ならば価値が高まるような風潮があるのは明らかなことに違いありません。
その洗脳の呪いはなかなか解けるものではないのでしょう。
若い人はテレビを観ない時代になりましたが、古い時代の価値観はまだまだ表現活動をする上でぶつかるであろう問題として存在しています。

芸能界で生き残って行く為に、多くのミュージシャンの大先輩方が社会の掟に止むを得ず従いながらやって来たのだろうなということについて考えています。
ジョン・レノンビートルズの成功により20世紀的成功モデルとなりましたが、彼はその成功の虚しさに気付き新たなる価値観の提示をしようと作品作りを続けている日々の中で亡くなったミュージシャンなのではないかなと僕は思っています。
世界中のミュージシャン達が、未だにビートルズになろうてしているのがこの世界に違いありません。
僕は18歳の時に上京してみて、実際に東京という化け物のように巨大な街の中を歩き回りながらビートルズになっちゃいけないと思いました。
人の心の欲望の全てを呑み込んで行くようなあの街で僕が見つけた答えは、さらば資本主義というソロ活動の中で作ったアルバムに集約されるのだろうなという気がします。
レコーディングをしていないのでリリースには至っていないのですが、311に捧げるアルバムとして作った作品でした。

街に出て歌えば、人々からの色々な反応が返って来ます。
共感の気持ちを持って受け入れて下さる方もいれば、反対に否定的な姿勢でのリアクションが返って来ることも過去のライブ活動の経験の中でありました。
中立的立場での反応もあったことでしょう。
中立的であったりまた否定的な反応があったとしても、歌が更に人々の魂に訴え掛けて共感を生んで行くようなミュージシャンにならなければ、次の時代の熱き希望等は歌えないのだろうなと思っています。
まずはいい作品を作り、そして素晴らしいライブをやって行くことが出来るように頑張るしかありません。


日本はもう先進国等ではありません。
実質的にはかなり後進国と思える事柄が、日々の暮らしの中で顔を覗かせているように思っています。
戦後、アメリカに守られた暮らしの中で失って来たであろうものに思いを馳せています。
人権はあってなかったようなものであったと思います。
ただ社会の平和が表面上は安定し持続していたので、その事実が見え難くなっていたのだと思います。
香港の現実こそが世界のリアルに違いありません。
日本も例外ではないと僕は思います。
香港のデモに参加している学生達の切実なる訴えに心を打たれています。
自由と平和を求めての魂の叫びです。
ひたむきな思いが伝わって来ます。
今日本人は、香港で生きるそんな人々に対して何が出来るのでしょうか。
傍観者にはなりたくないです。


ふれ愛まつりでのライブが済んで、今回のブログはそのライブを振り返りながら僕の思いを皆様に伝えてみました。
ライブに関わって下さった皆様、本当にどうもありがとうございました。

香港のデモ鎮圧の様子を取材して下さっているジャーナリストやメディア関係者である皆様に、届く筈のない言葉ですが思わずありがとうございますの言葉を伝えたくなります。
全くの素人の僕には、このような状況下での取材の大変さについてはただただ想像するしかないのですが、皆様の取材のお陰で香港でのデモの様子の詳細について日本にいても知ることが出来ていますと伝えたい気持ちになります。
本当にご苦労様です。
ありがとうございます。

デモに参加されている皆さんの民主化への思いを、隣国に住む友人として今どのように受け止め、僕達日本人は行動すべきなのでしょう。
銃弾を受けた方のことを考えると、どうしようもなくやるせない気持ちになります。
人々が安心して生きられる社会を望んでいるだけなのに、国家が国民に暴力を奮うことにとても深い悲しみを覚えています。
デモへの参加者が暴徒化しているのではなく、警察側が暴徒化しているとの情報が入って来ています。
警察に逮捕された女性はレイプするぞというような脅しの言葉を言われたそうです。
人間の持つ支配欲は本当に時に恐ろしいものになってしまいますね。
国際社会からの監視が必要だと思います。
世界が関心を持ち、たとえ小さな力だとしても自分にも出来る形で香港の民主化へのデモ参加者の皆さんの思いに寄り添い行動を起こして行けば、民主化は実現して行くと思っています。
必ず民主化して行くと考えているのですが、警察側とデモ参加者の皆さんの衝突による被害が大きくなるか小さくて済むのかや、民主化の実現が早まるか遅くなるかが僕達の関わり方によって違って来ると思っています。
無関心でいることや、自分なんかには大して何も出来ないと思い行動しないことが1番避けなくてはならない状況だと思っています。
香港が早期に民主化に至るように、その為に僕にも出来ることをやって行くしかないと思っています。


■ライブ告知
ふれ愛ランドLIVE
日付 2019年11月24日
時間 15時(50分間のライブ)
会場 ふれ愛ランド(屋内)
入場料 無料

FRENCH TOAST de SHOW!
日付 2019年11月30日
OPEN 14時30分
START 15時
会場 きららカフェ
入場料 ¥1000(コーヒー付き)