スケジュールに花束を

バンド、フレンチトーストのブログ。広島の明王台という団地にあるきららカフェで、2014年春にすがわらよしのりとマスターとで結成したフレンチトーストのストーリーを伝えます。

戦火のSPECIAL TOAST

西洋文明の崩壊。

西暦2021年秋の世界情勢を見渡し物思いに耽り込む。

コロナパンデミックは呆気なく収束したかのような報道への印象を受けている。

ワクチンが有効に働いたからだと政治が世論に訴えてはいるが、はなはだ疑わしき御時世だと感じ続けていた。



何がワクチンパスだ!

コロナワクチンは人殺しの武器である可能性濃厚のネット情報を得て、現実と照らし合わせ真実がどの辺にあるのか考えたならば思わずそう叫びたくなった。

ワクチン接種をしないと社会的資格が奪われる強制が働く世界にはおぞましさを感じ人間的でないと感じる。

ワクチン未接種者は社会悪であり排除すべき対象としてリンチを受けていた。

これはまさに戦争状態だと思う。

国家が治安維持という名目で社会安定の為であると聞こえ良く口先で言ってはいるが、格好ばかりで表面上の体裁をつけながら民を家畜化しようとしていると感じられていた。

ふと気付けば日常は第3次世界大戦真っ只中にあるように思えた。

そう仮定して今ある世界情勢を見渡してみれば起きていることの全てに納得することが出来た。


僕はミュージシャンとして立ち上がり闘うしかなかった。

人は必ず大切なことを忘れてしまうから。

だから素晴らしい歌が必要だった。

物質文明の発展の果てにアトランティスと同じ運命を辿るような人類の愚かしき争いがきっとまた繰り返されていたんだと思う。


コロナウィルスは細菌兵器。

感染者数は捏造。

緊急事態のどさくさに紛れて、人々が冷静な判断がつき難い状況を利用し緊急事態条項を持ち出し奴隷化しようとしている。

コロナは政治パンデミックで全くの嘘。

本当に恐いのはコロナワクチンだ。


という視点からどうか世界を見つめてみる時間を持ってみて欲しい。



人々の心が貧しくなり痩せ細ってしまっていた。

心が栄養失調だと思った。

美味しいスペシャルフレンチトーストを振る舞いたい。

争いに明け暮れるこの悲しみの世界に。

どんなに飽食の時代でも人は心が痩せ細れば自ら死んでしまうこともある。

絶望して生きられなくなってしまう。

音楽なんてなくても生きて行ける。

確かにある意味そうだと思う。

だが心の食事を摂らないときっと人は生きられなくなってしまう。


良い仲間とカフェに集い美味しいスペシャルフレンチトーストとカプチーノをどうぞ。

ほっこりと癒されて欲しい。


政治は緊急事態条項を巧みに使って国民の権利を根こそぎ奪う考えだと思われる。

ナチスドイツのヒトラー独裁政権を誕生させる為に用いたやり方だった。

それが現代に復活しようとしていたのだと思うが民がその罠に気付けないと危機感を募らせ僕は暮らしていた。

政治家は殆どみな私利私欲に走り、民のことなど爪の先程も思ってはいないのだろう。

コロナワクチン接種にコロナパス。

セットで一般市民を完全に奴隷化しようとしていることに早く気付いて欲しい。

たぶん僕のその見立ては間違っていないと思う。

人がいいばかりじゃ生き延びることが出来ない。

権力者層は必死で大手を掛けて来ているのだと思う。

資本主義が崩壊し世界の均衡が破れ貨幣経済や物流が麻痺し切迫していた。

だからコロナパンデミックが必要だったのだろうと考えていた。

戦争を仕掛けて経済難を突破するやり方は歴史の中で繰り返され事実として記録されている。

民よどうか目を覚ましておくれ。

世界中の人々に起きていることの真実と思われる今話して来たことについて分かって欲しかった。


オーストラリアではコロナワクチン接種の義務化で警官が国民を取り締まっていた。

ネットには生々しい映像が流れる。

日本のメディアが取り上げない世界の現実だった。

数年前に香港で政府と大学生達とか衝突した際にも、隣国であるにも関わらず日本のメディアは香港の人々の自由を求め立ち上がる動きを弾圧する恐ろしき政府の姿を誠実に伝えていなかったようだった。

僕はネットで幾らか情報を入手して惨劇の映された動画に衝撃を受けていた。

だが香港でデモを起こしている人達の為に何が出来る訳でもなかった。


世界中で今起こっていること。

監視社会の確立の為の動きなのだろうと思っていた。

コロナパンデミックやそれに伴う様々な事柄はその流れの中で人為的に発生していたのだろうと考えていた。



2021年 12月


9月の中秋の名月を過ぎてからの日々を振り返り、時の流れの早さを思う。

暑さ寒さも彼岸迄というがその通りだった。

暑くも寒くもなく、夏の熱気がクールダウンしていてとても過ごし易く爽やかな気候の秋が僕は好きだった。



10月に入ると自民党総裁選が始まる。

メディアに候補者4名が度々登場し主張を繰り返す。

何が何だか分からないような生温く解釈に首を傾げてしまうような場面にも出くわしていた。

子供の頃よくテレビで国会中継を観る時があったけど、国会議員って何が言いたいのかさっぱり分からないなって思いながら観ていた。

国の大切な話だから難しいことを話してるのかなと思っていた。

大人になった今も国会中継を観ると何が言いたいのか何を考えているのか分からない答弁は沢山ある。

大人って結局、私利私欲と立場で適当に何か不都合なことを誤魔化しながらのらりくらり喋っているからきっと何を言ってるのか分からないんだなと成長して来る中でそう思うようになって行った。

311の時原発事故による放射性物質の危険性についてYouTubeでメッセージし、その思いに共感する人々から支持されてタレントから国会議員になった令和新選組代表の山本太郎さんの発言は全部言ってることが分かる。

本音で語り誠実に受け答えしているからなのだろうなという思いで山本さんを見ていた。

国会では露骨に太郎潰しが横行する。

気が狂った権力層にのさばる人々が、フェアでクリーンな社会の実現を掲げる山本太郎を毛嫌いしていたのだろう。

共産党はヤバイ党だなというイメージがあったけど、今は分かり易い主張をしているなと思って見ていた。

ちゃんと隅々迄読んだことはなく人から聞いた話から知る限りだが、共産党の発行している赤旗という新聞はとても中立で真実を伝えようとしていて嘘のない内容なのだろうとういう印象を受けていた。

自民党は国立大学に例えると東大みたいなものだろうか。


あの有名大学なら間違いがない


何だかそんな妙な日本社会に根強き蔓延する自民党への信頼感や依存心を感じる思いで長年暮らして来た。

選挙をすれば自民圧勝。

色んな裏事情や柵あってのこととしても、そこには国民の後押しが必ず何らかの形であったからに違いなかったのだろう。

昭和的ブランドの象徴のような自民党の朽ち果てたかに見える現在を思う。

それ以外の党については良く分からないことが多いけれど、権力争いであって国民の生活の安定や幸せを真に願ってなどいないのだろうなと思われる駆け引きばかりが目に付くように思えていた。


僕はSNSから距離を取りがちな生活を送っていた。

SNSをやる余裕がなかったという大きな理由があった。

だがそれだけでもなかったかもしれない。

SNSをやる余裕がなかったという理由以外として思いつくのは、人間の意識がまるで凝固しそれぞれの意識レベルに永遠に点在する光のように成長の歩みを止め頑なな主張を繰り返すみたいに感じられそれを嫌悪するようになっていたからかもしれない。

そして自分の居場所のなさを感じていたような気がする。

全く相いれない価値観に隔たってしまい分かり合うことがないという思いを抱えていたのかもしれない。

僕の思いは誰にも届かない。

そうかもしれない。

だがだからこそ伝え続けなくてはならないのだと思った。

そして社会に感じていた頑なさとは僕自身の問題に違いないと改めてそう思った。

真に他人を許容する心の広さを持てるよう自分自身の人間的成長を願った。


日常は学園のクラスの中と相似形だった。

明るく軽くノリ良くの3拍子兼ね備えた80年代的生き方が今もこの社会をリードする存在に求められている要素だったのだろうと思う。

それは1つの明らかなる才能だったと思う。

素晴らしい能力だと思う。

そこに何か別の要素が更に加わることで、もしかしたらこの閉塞した時代を誰にとっても本当に愉快な時代へと導き塗り替えて行く力になるかもしれないということを思った。

何か違った価値観が欲しいと僕は思っていた。

時代は行き詰まり、カードの出揃ったトランプゲームのように既に勝敗は振り分けられ終了しているような毎日を実感していた気がする。

80年代が今終わろうとしているようなそんな令和の夜明けだった。

バブルの幻想を追った平成の黄昏をまだ人々は鮮やかに記憶し、寂れたアーケード街に漂うレトロチックなムードにホロ酔い気分で過去の体験の追体験ばかりを拾い集めるコレクションを楽しんでいる最中のような日常が続いているみたいだった。

バブル崩壊に傷つき、就職氷河期に絶滅したロマンの居所など知る者はどこにもいないみたいだった。

テレビの時代は去れど、メディア依存からの真の脱却はまだ果たされてはいない。

自立した意見を持ち胸を張って生きる自由こそが1番獲得すべき価値だった気がする。

その為に僕に今何が出来るかを考え続けていた。


コロナワクチンへの信頼がスタンード化され、ワクチンパス義務化へと猛烈な勢いで風潮は流れ込む。

現代人が何に依存し信仰しているのかを如実に表す現象だと思った。

彷徨える時代に人は社会不安を願い信じられる何か確かなものが欲しくてしがみつきたかったのだろう。


ワクチン接種をすれば大丈夫

ワクチンパスで社会規制を設ければ上手く行くかも


不安に対する構えは軍国的思想に傾いて行ったと思う。

人は恐いから武器を持つ。

戦後すっかり成りを潜めていた一極へと時代が流れる時のお決まりのパターンがはっきり顔を覗かせていたように思う。

そして戦前の空気になったかと思うと、気付けば戦中の世に僕は投げ出されていた。

人はもう他人の意見を聞く心の余裕はたぶん持ってはいない。


ふと日常会話の中でコロナについての話をする機会があった。

テレビの情報に添い持論を展開する話し相手は、社会的なコロナワクチン接種への流れやコロナワクチンパスについても正当なものであると全く疑いを持ってはいなかった。

世の中から真っ当だと認識されて行くであろう今の日本人の極々平均的意識を持つ人だと思った。

コロナにかかると同居しているお年寄りを感染させる可能性が出て来て迷惑が掛かることを気遣ったり、コロナワクチンパスがないと社会的活動が規制されてしまうこと等を挙げコロナワクチン接種とコロナワクチンパスの正当性を主張していた。

それ以外の考えを無自覚に排除してしまっていたとしても、きっとそのことを指摘されれば気分を害し怒るのだろうと想像していた。

たぶん何を言っても無駄なのだろうと思いながらその人の考えに静かに耳を傾けていた。

社会全体がコロナワクチン接種やコロナワクチンパス取得へ向かい大きく流れを打っていて、もはやその正当性を疑い議論する必要もない。

日本社会全体の意識はそんな所にあった筈だった。

これは戦中モードで右傾化だと僕は感じ続けていた。


多くの人々は自らの信念体系に共鳴した思考や出来事とだけ繋がり排他的になっていると感じていた。

そしてその生き方は暴力的だと感じていた。

白々とした日常。

本音と建て前の境界をぼやかして来た経済成長による備蓄からの浮力が尽き果てた現代の姿を思う。

そこには


いい

悪い


の2つが存在していた。

2元論と言われる分け隔ての世界だった。

ネット社会は今その2元論を明確に形作っているようだった。

本当に優しいと感じられるホッと安らげる投稿に出会うのは稀で、ほほ全ての投稿が一見調和的に見えても実は内部でとても尖り怒っているように感じられてならなかった。

そしてそれを自覚している人はまずいないようだった。

311の時同様にコロナでもこの社会は不安から一極に流れ、経済という物質的現実の救済ばかりを優先し人々はそれを支持していると思った。

破綻する経済モデルの中で極限を体験し人生観を改める位しか意識の成長は望めない状況のように思えていた。


311とコロナパンデミックとは何か類似するものがあると感じられていた。

自然災害的なことなどではない人災の匂いがした。

311の時は東北復興という名の下に絆とういう言葉が流行った。

不気味な一極に傾く正義を目撃した気がした。

それは小さな意識の中での人の暮らしに於ける善意ではあるが本物ではないと感じていた。

せっせと東北復興の為に北の国に通う西日本に暮らすボランティアが不可解な若き死を迎える。

病名は白血病

福1の原発事故で撒き散らされた放射性物質による影響とは誰にも結論付けることが出来なかった。

見ない聞かない言わない。

世の中はその習わしに徹底し準じていたように思う。

古い村社会で集落の掟を破りより自由な社会を求め立ち上がる若者は弾圧されるので多くの者はそのことをきっと恐れていたのと同じく、日本社会はちっぽけな平和の中あぐらをかき何もしようとしない文化が色濃く根付いてしまっていたと思う。


311の時、尾道疎開して来た北の国の人々に出会った。

原発事故による放射性物質の影響を考え列島を西に移動し流れ着いた人々だった。

世の中の流れは食べて応援で疎開組は少数派の生き方だった。

世の中的には気が狂ってる人のカテゴリーに押し込まれてしまうような生き方だったのかもしれない。

コロナの時代の今ではワクチンを危険視する人に向けられた非難へとその流れは続いていたように思う。


結局放射性物質の影響を危険視したりコロナワクチンを危険視すると、経済活動の障害になるから世の中的には排除したかったのだろうなと思う。

メディアは大衆がそう流れるよう情報を規制し洗脳して、感情迄もプログラミングしていたと思う。

このような状況に直面すればこのような不安感情が生まれ、大衆はこのように考えてこのような行動を取るだろう。

権力層にいる人間はそういう風に計算して来ていて、大衆は昔から扇動され家畜化という侮辱を受けて来たように思う。

大衆はたぶん被害者であるが、同時にそれを許可した共犯者でもあったように思う。

そしてその歴史は、経済第1優先が多くの人にとって大切にしたい価値観だったということを物語っていたことになるように思う。


だってそれが現実だったのだから


何だかそんな人々の心の声が聞こえて来るようだ。

凄く説明することが難しい精神的豊かさという世界が別にあった気がする。

日本社会が見失った幸せというものが。

現実に対する捉え方は様々だが、ジュパニーズスタンダードは経済第1優先ということだったと改めて思う。

戦後の高度経済成長期の価値基準に準じた世界観の中に今の暮らしの流れはまだあった。

国立大学ならば東大がトップで、権威的縦社会モデルの継承は尚続いていた。

政治なんてやっていないコネクションを頼りに成り上がった偽政治家が先生などと呼ばれ、権力を振りかざしていられる横暴な社会の存続を容認していたのは明らかに国民側の権威への依存だったように思う。

なんちゃって何とかという自称何々の時代は続く。

全てが無意識下で繋がり合い連携してジャパニーズスタンダードを形作っていたと思う。

幾ら胡散臭いものだとしても、経済第1優先の価値に準じた掟に背いていなければ正しいと認識されて行く。

極めて2元論的分け隔ての差別が良識的だと判断され認められる社会だった。

吐き気がしてゾッとしてしまうがそれが原発利権社会というものだったのだろう。

多くのネットユーザーの意識がその流れを讃美し、従順に資本主義社会の家畜となり丸くおさまっていたように思う。

だがそれでは多くの人の魂を真に自由に解き放ち、希望になりうる価値を獲得することは難しかったのだろうと思う。


アフガニスタンで銃弾に倒れた国境なき医師団中村哲さんを思い出す。

もうあれから2年の月日が流れ去っていた。

身柄が帰国すれど政府関係者に出迎えられることはなかった。

外国で多くの人の幸せを願い生きた1人の心ある日本人が暴力によって命を落とし、国家がその死をともらうこともない。

天と地とがひっくり返ったような日常だった。


コロナワクチンの研究をしたドイツのトップ医師アンドレアス・ノアック氏が武装警察により拘束されたようで亡くなった。

コロナワクチンの危険性を訴えYouTubeライブストリーミング中の出来事のようだった。

ノアック医師によるとコロナワクチンの成分である水酸化グラフェンは構造体がカミソリと同じで安定していて分解され解毒しないもののようだった。

血液中にこのカミソリの刃と同じに当たる物質を流し込み、トップアスリートは血流が早まっている際鋭く内蔵や脳や血管を切り刻まれ急死していると警告していた。

これは明らかなる犯罪の匂いがすると思った。

だがこの話はジャパニーズスタンダードからすれば1部の頭の可笑しな人達の偽情報扱いを受けるものだったのだろう。

世界中で真実を訴えていると思われる人が魔女狩りに遭い消されていた。

人々は日常的に現実として体験しているものを本当のこととして受け取り疑うことを知らない。

実際にそうだったという体験の積み重ねが現実を観念として捉えさせて行き、感性的に引っ掛かりを覚え逆らうことを止めて行ってしまうのだろう。

常識は嘘塗れだがその檻の中で真面な振りをして生きているのが大人なのだろうと思う。

本当のことが世界中に広く知らしめられ、全ての人が自由や豊かさや平和を勝ち取れる未来の訪れを僕は願っていた。

色んなことがまるであべこべになってしまった複雑過ぎる世界で。



僕は創作に明け暮れ、いまだ出口の見えないコロナワールドに思い巡らせていた。

自民党総裁選に突入以後、メディアから流れ続けていたコロナ情報がめっきり激減していた。

ワクチン接種の効果だと世の中は疑っていない様子だった。

久しぶりに街に繰り出し飲み会を開く人々。

夜代行タクシーが一般車両を引き連れ、街の方から近所の住人を送迎して来た場面を見掛けた。

暫く見掛けなかった光景だった。

きっと飲み会でアルコールが回り代行タクシーを呼んで帰宅したのだろうと思った。

ご近所のスーパーでも利用客を集め飲み会を開く予定がある情報が入って来ていたそんな毎日だった。


僕の身近な人々の多くがコロナワクチン接種を受けていた。

そして副反応から体調を狂わせる人が多くいた。

コロナワクチンを接種してみて何か動物的勘で体に違和感を覚えているように思える人もいた。

だが左脳的解釈に現実は擦り替えられ理屈で現状況への判断が加えられているのかなという印象を受けていた。

新しく開発中のワクチンだからまだまだ副反応が出ることも止むを得ない。

そんな意見も聞こえて来ていた。

一見日常は平凡に過ぎ去って行く。

人の暮らしの歓びも哀しみも時の流れの早さに取り残され、そんなこともはや大してどうでもいいことであるかのように世の中は経済活動に付随した価値ばかりを信仰しているように思えてならなかった。

僕の生き方は時代遅れもはなはだしく、周回遅れといった感覚に捉われる。

ラソンに例えると、周りを走っているランナー達は皆一周先でレースを競う人々のように思えていた。



そんな日々を過ごす中で久しぶりに連絡を取って来てくれた人がいた。

僕にコンサートのリクエストをしてくれた。

それを機にライブ活動再開を真剣に考え始めていた。

新曲作りはずっと続けていた。


コンサートのリクエストをくれた方はコロナワクチン接種の2度目を済ませ落ち着いたらライブを聴きたいと思ってくれていた。

そして間もなくコロナのオミクロン株という変異株が発生する。

やがて欧州で感染が広がり始める。

次のコロナ騒動が現れる。

予測通りのシナリオだった。

メディアはワクチン接種とセットでオミクロン株情報を流し始める。

コロナワクチン接種へと扇動されて行く流れの色濃く滲む現実がそこにあったように感じていた。


いつ迄もは続けられそうにないコロナ感染への恐怖を煽った日常と疲弊を続ける人の心。

やってられないものがあると思った。


そしてこれはきっと第3時世界大戦という名の戦中の日々の出来事なのだろうと、僕は結論めいたものを感じているようだった。

そう仮定して現実を見つめると全てがすんなり納得の行くようなことばかりに思えた。

コロナパンデミックとはきっと仕組まれた第3時世界大戦に違いない。

この戦乱の世を治めるのは愛の歌に違いない。

思想でも政治でもない。

まず初めに必要なのはきっと希望に溢れた歌だ。


ワッと泣き叫んで思わず愛しき存在を抱きしめる。

そんな理屈を越えた衝動からの愛の行為が必要だと思った。

理屈は後で現実を上手く生きて行く為に働いてくれればいい。



年の瀬が徐々に迫り気忙しさに揉まれ日常が歩幅を少し広げるように暮らしは歩み続けていた。

消費税が高いランキング世界2位。

ふたご座流星群の到来。

森友改ざん文章は赤木さん自殺の要因と認める判定の報道。

岸田首相は赤木さんの奥さんとの面会を拒否せず、ちゃんと話をして向き合い誠意を尽くして欲しいと思った。

逃げていることは子供でも分かると思う。

メディアもちゃんと岸田首相に逃げず話をして向き合うよう促して欲しい。

皆自分の都合で適当にやっているのだと思う。

誠実に生きた人が苦しみ社会の皺寄せを食らっていると思った。

様々な出来事がまことしやかな現実世界の素顔を描き出す絵の具のように暮らしに色を付け足して行く。


僕の身近ではコロナワクチン接種後血栓症を患った人が現れていた。

既にコロナワクチンが血栓症を生み出す研究結果が公表されていた。

日本のメディアの触れたがらない情報の1つだった。

僕の身近にいる人のその血栓症とコロナワクチン接種の因果関係を化学的に突き止めることは、ドクター等でもない限り誰にも出来ない。

311以後若い人の白血病や突然死と福1の原発事故により撒き散らされた放射性物質との因果関係が突き止めらなかったことと同じように。

311からもう10年目の今年。

僕にとってはあっという間の月日だった。

社会はあれ程の大惨事を経験しても尚変わらず経済第1優先だった。

そして今の所コロナパンデミックへの反応も311の時の原発事故への対処法に類似し変わらないように見えていた。


生活の歩幅を乱すような危険を訴える者は気が狂っていて可笑しく間違っている


社会が守りたかったのは人の命ではなく経済活動だったことは間違いなかったと思う。

不都合な者を抹殺しながらファシズムが日常を大手を振り闊歩している国日本。

それが経済大国の成りの果ての姿としての今日の日本社会の在りようだったのだろうと思う。


サッカーのTIFAの試合で1週間に4人もの選手が心臓を手で抑えるという出来事もあった。

ツイッターで動画や添えられたメッセージが流れていたので知ることが出来た。

音声なしの動画を初め目にしていて何のことかと思ったが見過ごしていた。

数日後だったのではないかと思うが、その動画の意味を知らせるメッセージが打たれたツイートを見つけようやく何のことかを知らせようとしていた投稿だったのかが分かった。

たぶんコロナワクチンの危険性を知らしめる目的で発信されていた動画だったのだろう。

そんなことがあり直ぐに、きっと暗殺されたのではないかと思われるアンドレアス・ノアック医師のコロナワクチンへの警告を思い出した。

カミソリと同じ構造体である水酸化グラフェンが激しくスポーツをするサッカー選手の血管内を血液に混ざり心拍数の高まりの維持と共に高速移動すれば一体何が起こるかは素人の僕にでも理解することが出来た。

だが日本社会では議題に上らないニュースだったのだろう。

SNSでも日常的にこのようなテーマでユーザー同士が連携し合い意見を真剣に取り交わす等という光景は生まれて来なかった。

僕はそのことに酷く落胆していたのかもしれない。

結局は自分の社会的な立場を守りながらの柵だらけの人間関係と偽の友情ごっこってことに日常はなるのではないかという思いから白けた気持ちに傾いていた部分はあったように思う。

そう嘆いたからといって何が始まる訳でもないことも同時に分かっていた気がする。

幼稚園の学芸会のような作り事ばかりの毎日が続いていた気がしていた。



2021年。

振り返るとライブは年始にFRENCH TOAST de SHOW!を1本と10年目の311を迎えミニコンサートをやっただけの1年となっていた。

梅雨の頃にはフレンチトーストの活動を休み久し振りにソロ活動を再開させた。

暫くしてまたフレンチトーストの活動に戻る。

ここ数年フレンチトーストの活動を続けて来て勢いがあったので、やっぱりその流れに今は重きを置き活動して行こうかなと思いフレンチトーストの活動に力を注いでいた。

主に曲作りをしていた。

今後の展望としてはまずライブが出来たらということを思っていた。

フレンチトーストの歌を忘れずにまた聴きたいという人がいてくれただろうか。

なかなか大切なことが伝わり難く心寂しい時代だ。

だがその寂しささえも凍りつき、もはや感覚すら持てない程時代は疲弊しているように思えていた。


難しいことは分からないが、歌い出せばきっと大切なことを社会的な場で多くの人と共有出来る気がしていた。

今の僕には致命的な傷を負い足掻いているように思える時代への対応として、歌以外に可能性が見つけられないでいた。

何を言っても聞く耳持たずで無駄。

権力者層からの洗脳を受けた生温い平和の中では。

そんな気がしていた。

戦争をおっ始めた国で平和を説いても既に役には立たない。

今はきっとすっかり戦中の世だ。

そうとは知らされないままに。



僕はスペシャルトーストの開発に蚤意識を集中させるシェフのような毎日を送っていた。

美味しい物を食べることに歓びを見い出さない人は大抵の場合いなかっただろう。

シンガーソングライターとして歌作りに情熱を注ぎ作品に魂を込める。

どうか僕らに真の自由や平和の意味が分かりますようにと祈りながら。


美しく素晴らしき歌の花束を捧げるより他、このBlueな時代に奇跡を起こす術などない気がしていた2021年12月中旬の今の僕の思いを書き記しておいた。