10日のきららカフェ 〜8度目の春〜
10日の日曜日は、午後からきららカフェさんへ伺って予定していた通りにAFTERNOON LIVEをしました。
この日は、ライブというよりリハーサル的なノリになりました。
フォークユニット2.Li–Joyの佐藤さんと阿南さんのお2人も来られていて、かぐや姫の曲を聴かせて頂きました。
お2人は2月9日にあったミュージックファクトリーさんでのフレンチトーストライブをわざわざ聴きに来て下さり、その時佐藤さんにはライブの撮影役までお願いしてしまったのですが快く引き受けて下さっていました。
有り難かったです。
ドラマーのひかる君は友達とスケボーをして遊ぶから来れないことについてメールでのやり取りをしていたのですが、生憎の雨降りで外でスケボーが出来ずきららカフェへとやって来てくれました。
フレンチトーストライブを一緒に出来て、外は雨降りですが爽やかで楽しいひと時を過ごせました。
マスター御夫妻の娘さんの雛人形がカフェの奥の部屋に飾られていました。
娘さんは僕と同級生で、雛人形は40年前のものであることをママさんが話されていました。
きららカフェさんに飾られた雛人形の鑑賞を楽しみながら、コーヒーでも飲んでゆっくりとくつろぎ日本的な和の心を感じる時間を持つのもいいかもしれませんね。
音楽は世代を越えて人と人の心を繋ぐ役目を果たしてくれることを、この頃は特に強く実感しながら過ごしています。
僕の中では、今や社会全体がまるで完全に学級崩壊状態にあるようなこの日本を救ってくれるのは、もはや優れた音楽でしかないだろうと個人的には感じています。
僕は音楽をやって生きて行くと決めていて、自分にとっての音楽の持つ役割について語っています。
倫理観の崩壊した世界では、どんな言葉をもって何か思想を説いてみてもたぶん焼け石に水で役に立たない気がします。
社会を少しでも良くしたいという沢山の人が、それぞれの思いから善意ある行動を続けて来られているのだろうなと思っています。
その思いが空回りするような社会的な壁もまたあったことでしょう。
311が今年もやって来ましたね。
あの日からの日々を僕は1人振り返っています。
社会を希望に満ちた未来へと導くには、ただひたすらにいい歌を歌うしかない。
僕にとっての結論です。
自分にとっての正しさを歌うこととも何か違っていて、もっと人間の本来的な欲求や感覚に沿って自然であるという感じかなという気がします。
何かを成してやろうなどというエゴ的なものとも違っていて、全体の一部として自分がちゃんと機能出来て他人を敬えるような精神状態にあること。
自己実現のようでありながら、全体への奉仕に繋がっているような感覚であること。
それが僕にとってのステージという場で行おうとしていることのような気がします。
きららカフェさんにはコンガがやって来ていました。
ライブを皆さんに聴いて頂くのに、助っ人となる素晴らしい楽器がカフェに登場しました。
マスターの古くからのお知り合いらしい方が貸して下さったみたいです。
勝手にコンガがカフェにやって来たことは偶然ではない気がしました。
フレンチトーストの曲を一緒に奏でてくれたら、とっても幸せを感じます。
コンガがよくカフェへやって来てくれたなと感謝しています。
本当に有り難い話です。
最高です!!
一緒に音楽を演奏してくれる仲間がいて、何もいうことのない有り難い毎日を送らせてもらっているなと思います。
足りないものに目を向ければ無限にあるものですが、本当に自分の人生にとって必要なものだけを選んで生きて来たつもりなので、今はとてもシンプルに必要なものが自然と僕の周りに集まって来てくれるようになったのかなというような印象を持っています。
僕の過ごした青春は嵐のようでしたが、その日々の中で学び勝ち取って来たものが自分の歌となって僕を支え、また人との良き縁や素晴らしい出会いといった本当の人生の財産を運んで来てくれていることを感じています。
生き延びて来れたことが奇跡のような、とても険しい半生の旅でした。
その中で学んで来たことを1つ1つ歌にして皆さんの元へと送り届けることが出来るような音楽活動を、今後今迄以上に続けて行きたいというのが僕の唯一の願いです。
たぶんそれ以外にはありません。
そういったことを強く実感している今日この頃です。
311から8度目の春になるのですね。
東日本の復興は、原発を今後どうして行くのかという重大な問題と合わせて、より建設的な政策の実現に向けた動きの中で語られなければいけないことのように思います。
繰り返し既に同じような主張を繰り返しては来ましたが、311という国難のあった日を迎えたのでまた思いを伝えています。
政府には自然エネルギーの為にお金をかけて欲しいなと思います。
やろうと思えば出来ないことではない筈だろうと思っています。
多くの国民の皆様はどのようにお考えでしょうか。
僕は安全で命を大切にするような社会の実現を望みます。
原発を続けるということは、福島第1原発の事故を超えるような事故を引き起こす、そう遠くない筈の未来に辿り着く結果に至るということがいえるように思っています。
これは予言でも何でもなくて、自然の流れの話だと思います。
老朽化してゆくばかりの原発は、地震大国の我が国にとっては今後厄介な問題だけを残すものにしかなり得ないと思います。
核の平和利用等は不可能で、いずれは滅びの運命を辿ることはもはや間違いのないことであると福島第1原発の事故が証明してくれたのも同然だなと思っています。
ただこれらの思いを幾ら言葉にして語ってみても、世論を日常的に活性化させる力がないような虚しさを感じている僕がいる気がします。
やはりいい歌を歌わないと駄目だと感じます。
それを成して行くことだけが、僕にとってのこの世の希望です。
安全神話は滅び、僕らの暮らしにはぼやけた倫理観の枠組みだけが機能不全となった社会システムとして存在しているかのようです。
血の通った人間の心を縛り付けておくには、もう社会制度自体に力がないのだろうと思います。
安全神話の崩壊とは、歪んだ倫理観の闇に光が射したようなことでもあった気がします。
安全神話を信仰して生きることは既に出来ず、人々は財政難により傾いた国家から見捨てられ、体制に依存することを許されず、持って行き場のない感情の捨て場所が見つけられないでいるかのようです。
使用済み核燃料の捨て場所がないことと同じように。
循環型の生き方を知らないということに繋がるテーマの話のように思います。
まさに現代劇ですね。
現実とは。
全てが完璧にシンクロしていていることが分かります。
こういった時代性の中では、説教は一切役には立たないと感じます。
人を戒めるのに充分な言葉が存在しないという気がします。
そして生き方を見失った人の心は荒れ果て、孤独の中で自他共にいじめを繰り返すような精神状態を生み出しているのかもしれません。
あくまでも一考察ですが。
学級崩壊状態にある社会というのは、個々人がそれぞれに大切であり社会にとって必要な存在であるという愛ある状況にはないということのように思っています。
大人もグレてしまっているように感じる場面を目にすることがあります。
多くの人が、きっと今幸せではないということのような気がします。
愛されて育った実感がきっと湧かないからなのでしょう。
自殺者数ワーストワンの国であるということが、そのことを物語っているように思います。
こんなに物が豊かな時代なのに悲劇ですね。
この世の果てを彷徨う沢山の魂達。
その痛みに対して温かな援助の手が必要です。
死ななくてはならないくらいに追い込まれてしまっている人が、沢山今もいるのですね。
とても深い悲しみを覚えます。
そして社会的ないじめの構造の中で、人は誰しも深く傷つき育って来ているのだろうということへの本質的な生き方についての深い洞察が必要だと強く感じています。
いじめる側もいじめられる側も傍観する側も、全て含めての話になると思います。
そのことに深く気付かないと真の問題解決には至らないように思います。
ここに社会全体の集合意識が向かうには、まだ沢山の困難を乗り越えて行かなければ、きっと辿り着くことは出来ないだろうと思っています。
辛抱強く努力するしかありません。
だから余計にいい歌の持つ力が必要な時代になって来たのだなと感じます。
311から8度目の春を迎えて思っていることを伝えてみました。
君のことを大切に思っていて愛してる。
僕達にとって本当に必要なものは、ただそれだけの筈だと思っています。
皆さんの人生にどうか沢山の幸よあれ!
お祈りしています。
言葉足らずで下手糞な文かもしれないけれど、最後まで読んでくれて本当にありがとう。
今日は3月11日なので311に思いを馳せて、YouTubeにアップしてあった311について歌った曲と10日に撮影した映像もアップしたので紹介しています。
フレンチトースト お喋りなPERCUSSION –リハーサル風景–
きららカフェ AFTERNOON LIVE 2019.3.10
演奏曲(リハーサル的に演奏した為、途中で止めて繰り返し演奏したり後でまた演奏した曲もあります)
1 CHOCOLATTES de SHOW!
2 午前0時のMOONLIGHT
3 ALL JAPAN
4 星も見えない夜だから
5疎開組
6 お喋りなPERCUSSION