スケジュールに花束を

バンド、フレンチトーストのブログ。広島の明王台という団地にあるきららカフェで、2014年春にすがわらよしのりとマスターとで結成したフレンチトーストのストーリーを伝えます。

月柳

お久しぶりです。

フレンチトーストの活動を暫く休んでいたのですがまた再開しました。

最近の僕はソロ活動に力を注いでいました。

ソロ活動を皆様に伝えているブログ「シュールにROCK決めこんで」を更新していますので、お時間がある時に是非覗いてみて頂けたら嬉しいです。

今はソロ活動とフレンチトーストの活動を並行して行って行こうかなと思っています。

今日は最近制作した月柳という散文を紹介します。




月柳


柳の葉が夜風に歌う。

この国に生きる人々の心を。

月明かりがそっと優しく降り注ぐ秋の夜のことだった。

僕は大切に思う人達の笑顔を思い浮かべながら月見酒を一杯煽っていた。



小川の微かなせせらぎの音。

川の鯉は寝静まり、艶やかなるその色取り取りの模様も水の底に折り畳んだ十二単のように流れる水に揺らめき気配を潜めている。

上等の織物を染め抜く日本の伝統技術。

例えばそんなものを守る繊細な優しさがこの国の暮らしに欲しかった。

右向け右で皆心を均一化され生きて来た現代を思いとても悲しく思っていた。

月明かりに照らし出された夜の街が、しっとりと秋の気配に包まれその風情を味わう。

世の中はコロナコロナで大変な大騒ぎを続けている。


僕はこの人生で幾度か大きく世の中の流れを疑った経験がある。

まず最初は小学校に入学した時だ。

自分に与えられたクラスの席に着き授業が始まった時、何か不味いことが始まったと感じ僕の心は立ち止まってしまった。


義務教育とは一体何なのか?


僕がこの世に誕生して以来最初に覚えた社会制度に対する大きな疑問だった気がする。

義務教育の義務とは国が国民に背負う義務という意味だか、実際には子供が国家から義務を課せられているといったニュアンスを僕は感じている子供だった。

クラスの仲間達はどんな風に感じているのか直ぐに教室の中を見渡したが、誰1人として僕のように感じていない様子だった。

皆の表情を見ていてそう感じられた。


小学校中学年位になるとやがて訪れる中3の高校受験を思い、まるで死刑執行の時を言い渡された死刑囚のような気持ちでいた。

世の中とは本当に恐ろしいものなのだなと感じていた。

人間的な総合的能力をフェアに区別しふるい分けるということには、個人の向き不向きという問題について明らかになることであるし適材適所を知ることが出来幸福に繋がる結果に至る可能性があると思うので賛成だが、国家の政策の枠の中で能力を競わされているということにとても大きな問題意識を持っていた。

これは人間性の排除だと思った。


そして時代は流れ311が起きた。

食べて応援という国を挙げての大キャンペーンが展開する。

大企業が軒並み名を連ね賛同していた。

放射性物質の検査が行われてはいたが、まるで当てにならない内容に信用することが出来ない状況だった。

まさかここ迄日本社会が経済第1優先主義になびいて行くなどとは僕は想像していなかった。

安全神話の嘘がバレようが原発は稼働し続けた。

いまだに原発依存を手放す気のない社会が続いている。


そしてコロナパンデミックが発生する。

国は一気にワクチン接種へと国策の舵を切る。

ワクチンは安全性が全く実証されていない代物だったが、国民の多くは社会的流れに従い信用していた。


311とコロナパンデミックは逆境の続く時代の出来事であったと思うが、その試練に反応する国民の意識に変化の兆しは余り見られないように思えた。

試練に耐え成長するという流れよりも、社会風潮に流されて行くような国民全体のムードを感じている僕がいた。

全てが経済第1優先主義に染め抜かれているように感じていた。

経済第1優先主義とは愛や理想といったものを諦めている姿だと僕は思っていた。

僕はその生き方にとても大きな疑問を覚えてならなかった。



2021年秋。

東京五輪は閉幕し秋が訪れ、2度目のコロナワクチン接種を終えた人が相当数いるという状況だった。

インドやシンガポールイスラエルといった国々もワクチン接種を推進してやって来ていた。

そんな国に限って感染拡大が起こっている。

それは日本も同じことだった。

このことの意味を国民は少しずつ理解して行かなければならない筈だった。

コロナワクチン接種自体がコロナ感染を広げているのではと考えてみる視点を持つことは必要なことだと僕は思っていた。

311の時の原発事故の問題に対してもそうであったが、僕は専門家ではないから放射性物質の及ぼす人体への影響について確かな意見を述べことは出来なかったし今回のコロナやコロナワクチン等について責任ある意見を述べることが出来る訳ではなかったが、これが真実に近いことではないかと感じていることに対する思いを具体的に表明しながら時代を語ろうとする表現活動を続けたいと思っていた。

勿論考えを強要するつもりではなく、一意見として誰かにとって自分の考えを整理する為に役立ててもらえたらいいなという風な思いからだった。

見当違いなことを思っていることもあったのかもしれないが、それを踏まえた上で僕の思いを共有してもらえたならば有り難かった。


健康で綺麗だった血球がワクチン接種後に歪な形に変わり、無数のナノ粒子というものが現れているのを顕微鏡で覗いた写真ではないかと思うがネットで見掛けた。

スパイクタンパクはワクチン接種により増殖するという結果が国立感染症研究所により7月21日に既に発表されていた。

たぶん血栓が出来るという意味なのだろうと思った。

5Gがコロナを重症化させる要因の1つであるとする情報もネットの世界には存在していた。

コロナワクチン接種による結果が出ていたが、メディアがそれを誠実に伝えようとしていない現実がたぶん続いていたのではないかと思う。

ジャーナリズムなきメディアは何の信用性もない1大洗脳キャンペーンでしかなくなっているという思いでいた。

支配者層にとって不都合な真実を視聴者に伝えないように思えていた。

コロナは伝染病ではなく血栓症だとロシアからもうはっきりとした医学的研究結果が出されていた。

それが絶対的なものかどうかは分からないが1つの確かに存在する研究結果ではあったのだろう。

コロナにより亡くなった患者の身体を使い医師達が研究を進めたようだ。

そしてコロナウィルス自体存在しないと結論付けている。

血栓が出来血液が凝固して人を死に至らせているということのようだった。


何故それをメディアが伝えていないのか?


コロナワクチンが人体に悪影響を与えているという現実があるとされる研究が出ているのに、何故それを一切メディアが伝えないのだろうか。

頻繁にテレビ等の情報を取り事実確認を取っていた訳ではないが、コロナは血栓症でスパイクタンパクはワクチンにより増殖するという結果が無視されているようだった。

もうコロナウィルス自体の存在の否定やワクチンの有効性に対しても完全に現実として判定が下されている実例が挙げられているのに、この日本社会はそれを認めようとしていないと思う。

この国のコロナ感染対策が過ちであったことを証明するだけのカードが出揃っているような状況ではないかと思っていたが、人々を恐怖により扇動しようとする権力の暴走は依然止まらないように見えていた。

社会構造が変化しない限り、負の循環のスパイラル運動は止まる事はないのではないだろうか。

そしてその運動を支持しているものは経済第1優先主義だと僕は思った。

国民が政府の扇動に従っている訳は、自らも経済第1優先主義に毒されてしまっているということだろうと思う。

そして経済第1優先主義とは、人々の人生への絶望と諦めを物語っていると僕は思う。


どうせ社会に抗っても無駄


諦めを土台にこの日本社会が成り立っているということが分かる気がする。

その諦めを培ったのは、小学校に入学し義務教育課程がスタートした瞬間から子供達の心に広がって行った筈の社会に対する扇動された負のイメージによる人生プランの組み立てと自分らしくない歩みの継続の結果なのだろうと僕は思っている。



今は与党である自民党内で新党首を4人の候補が争っている。

菅首相は間もなく総理の座を明け渡す。

そしてまた誰が総理になったとしても今迄と代わり映えのないような政権が誕生するのだろう。

もう先のシナリオが見え見え同然のように思えていた。

北朝鮮弾道ミサイルを日本の海域に打ち込んで来ただとか、コロナ感染で重症者数が増えているだとか恐怖による扇動はもう真っ平だった。

全てマッチポンプ

恐怖を与え社会構造に従わせる為の劇であることはもはや明白だと思った。

犯罪者並みの発言をする人が政治の表舞台で堂々と活動を続けている。

獄中生活を送らなくてはならない程の犯罪が見過ごされていた。

そしてコロナワクチン接種について等、国民同士で意見が食い違いリンチが横行している。

沢山の人が今幸せを感じていないのだなとつくづくそう思う。

ネットを使えば子供でも簡単に集められるようなコロナに対する様々な情報を、バランス良く中立的に全て並べテレビのワイドショー等が取り扱うようならばどれだけ平和な世の中になるだろうかと思う。

メディアによって騙されているにしても、その情報を信じてしまうという事は国民も同じような価値観を持っているということだろう。

つまりは意識が共鳴していて同じレベルだという事になると思う。

結局メディアとは国民の声なのだなぁと思う。

政治もそれは同じことだろう。


昭和の繁栄の時代が終わりその浮力さえも尽き果て、そんな近代国家を築き上げて来た礎が経済大国崩壊の末に姿を現している。

その礎に刻み込まれているのは神風が吹くという言葉だ。

大日本帝国を突き動かすしたファシズムの象徴的号令だった。

戦争責任を取っていないこの国は、未だそのファシズムを土台とした国家の礎の上に日常を繰り広げていた。

コロナワクチン接種は神風が吹くという号令と同じ意味を持ち、そしてどうしようもなくなったら集団自決を強要される社会だ。

日本国民の根性に宿ったファシズムの狂気に気が付かなければならないと僕は思う。

例えば不登校児に負のレッテルを貼り叩くこととも繋がるし、障害者を蔑むことにも通じていると思うが、コロナワクチン接種を拒む人々が差別意識により現代に於いて叩かれていてしまっていた。

人権が奪われ自由に思想を語ることの出来難い社会の実態が浮き彫りとなっていた。

皆右向け右で大方の人がそんな風な差別意識を持ってしまっていたように僕には見えた。

無自覚の内に。


今この国に必要なのは、以前の生活を取り戻す為に各政策の方向性を打ち出すということではないような気がする。

そうではなくて、今ある経済第1優先主義というもの自体を方向転換させるべき時だと僕は思う。

そんなことを掲げた候補者が1人もいない自民党には全く希望が感じられなかった。

必要なのは脱原発であり、コロナワクチン接種による人体への被害の実例の誠実な検証結果報告を伝えるようとするマスメディアのリテラシー等に違いなかった。

それを抜きにして何を今更政治だのジャーナリズムだの言えるというのだろうか。

過ちであったという色々な事はなかったかのようにしてしらじらしく突き進む政治やメディアの在り方にはとても強い憤りを覚える。


国民はコロナワクチン未接種者を集団リンチしている。

第2次世界大戦時に神風が吹くという号令に異論を唱えた者を非国民と叩いたのとそれは全く同じだ。

経済第1優先主義はファシズムに通じる。

そして経済第1優先主義はいじめ社会を築いて来た根底理念でもある。

人は社会から自分が受けたいじめを自分よりも弱い者に押し付ける。

いじめの連鎖はそうして続いて行く。

コロナワクチン接種の問題から生まれている推進派とワクチン接種の流れに疑問を持っている人々との間に生まれている衝突は、いじめ社会の根源的な問題を象徴していると僕は思う。


それぞれの違いをただ認め合いたらいいのにと思う。

コロナワクチンを接種しないとコロナが確実に感染拡大して行くという確かな医学的データはないように思う。

コロナワクチンを接種したからこそコロナの感染を広げているという情報がある。

ワクチンを接種するかしないか、どちらを選択しても両サイドにそれぞれの正しさがある。

そして命が危険に脅かされるというギリギリの所で違いを認め合う思いやりの心を持てるかが試されているように思う。

僕達が望んでいるのは自由で平和な未来である筈だ。

その未来を迎える為に今日僕達に一体何が出来るのだろうか。


同じ職場内にいる人々や親しい家族との会話の中でコロナワクチン接種に対する考えを意見し合った際、様々に個人の考えが違っているだろう。

生き方の根底を指し示す個人の思想が良く表れるテーマだと思う。

大日本帝国玉砕の遠き昔、置き去りにしてしまったテーマが今日に姿を表しているように思った。

戦争責任は国民にもあったと思う。

とてもシビアなテーマであり、僕達の魂が自分の考え方や生き方とは違う他者の人生観すら許容しながら許し合い認め合って、本当に平和な世界を実現して行く道を切り開いて行くことが出来るかどうかが懸かった大きな時代の分岐点へと到達しているように感じていた。


見つめるものが食い違っているのは、それぞれの信念体系がありその意識から現実の中で出会う情報を取捨選択しふるい分けているからだろう。

誰かにとって事実ではないかと思える情報も、別の人にとってはデマできっと何か別の思惑が働いているように感じられるということが起きているのではないかと考えていた。

どちらがいい悪いではなくて、自分の選びたい生き方に合っているか合わないかという事柄だという気がする。

どちらがいい悪いとジャッジメントしてしまうと争いが生まれる。

色んな考え方や生き方があっていいと考え認め合わなくてはならなかったのだろうと思う。

他者の生き方を認めず生きる権利を奪うようなことが生じた時、あらゆる社会問題の争い火種へと発展し戦争状態に陥って行ってしまうのだろう。

それは明らかな罪となり人間の犯す過ちに違いないと思う。


僕はコロナに対する個人の考えを展開し語っているが、勿論これはフレンチトーストの僕以外のメンバーの考え方とは違っているかもしれない。

シンガーソングライターとして僕は、フレンチトーストとしての曲や散文へと思いを昇華させ作品を生み出して行く。

なのでフレンチトーストとしての曲や散文として作品が生まれているが、あくまでも僕個人の思いが作品になっているということを伝えておこうと思う。

今回のコロナに関係する事柄は非常に多様な価値観にそれぞれの思いが別れるのだろうと思ったので、僕個人の思いをフレンチトーストの作品へと反映させることで社会からの批判をメンバーが浴びて迷惑が掛かるようなことが万が一あってはならないという理由から僕個人の思いであることをここに記しておこうと思う。


コロナワクチン接種をどのように考えるべきかについては、感染すると自分が他者に対して生命の危機に繋がる問題を生む可能性が出て来るので取り扱いが難しく感じていた。

ワクチン接種推進派とワクチン接種を望まない人達の双方にそれぞれの視点に於いての正しさがあり、だがその互いの思う正しさを現実的に証明することが出来なかった。

時が経てばはっきりして来るとは思うし、既に決定的な情報もあるかもしれない。

真実が明かされて行く中で、僕達は自分の事実認識の過ちに気付き生き方を軌道修正したり感じていたことに間違いはなかったことを確かめながら人生の旅を続けて行くのだろう。

第2時世界大戦終焉のドラマでは、天皇が現人神ではないことを国民に伝えたことで神風が吹くというファシズムの号令は一応鳴り止んだ。

だが戦争責任をきちんと追求して来なかったこの国では、神風が吹くというファシズムがでっち上げた神話がまだ経済第1優先主義へと姿を変え息づいていた。

その神話がコロナワクチン接種を望まない人々を弾圧している現実に対しては、僕は人間として決して許せない思いを持っていた。

ワクチン接種推進派と接種を望まない人々とが互いに双方の意見の正しさを証明することが出来ない現段階に於いて、人権を奪うような言動を取ることやそのような社会的動きが生まれることを容認することは出来ないし人間として許すべきではないと思っていた。

それぞれの視点は全て正しいが、ある1つの方向性に向かう流れに従うよう社会が個人に強要するようなことはあってはならない過ちだと思う。

これは戦時中に起きた軍国的な流れだとはっきり気付かないといけないとても不味い問題だ。

コロナワクチン接種推進という日本社会の今の流れが軍国思想を強く帯びている部分があるということについて分からないといけない。

他者を蔑み馬鹿めることも勿論良くないと思う。

SNSでは他人を小馬鹿にしたような投稿を見掛ける。

それは僕自身の姿かもしれないと思い自らを戒めそうあってはならないと思っていた。

人はみなそういった愚かさを心の内に秘めているのだろうと思う。

そして精神にはきっと神としての美しさすら宿している筈だと思っていた。

多くの人が魂のレベルを上昇させその意識の領域へと辿り着く為に、僕はミュージシャンとしてそのサポート役を果たして行きたいと願っていた。



幸せって何なのかな。

お金よりも傍にいる人が自分に対して微笑みを向けてくれること。

社会的成功よりも家庭の中が平和でつつましやかでも安らげているということ。

何よりも仲間を信頼出来るということ。

心から信頼出来る人と僕達は人生の中で何人出会っているだろうか。

パートナーを尊敬しているだろうか。

そういったものに出会えない虚しさをお金で紛らわして来ただけなのではないか。

真の豊かさとはきっと自分自身と誠実に向き合うことから始まって行く。

お金には替え難い信頼することの出来る人との出会いというものがきっと人生にはある。

それがこの世の真の希望なのではないか。

柳の葉音が時代を歌い、月と柳の狭間を夜風が彷徨いどこかへ秋の調べを運んで行く。

この世に生まれて来て本当に良かったと思えるような愛が僕らの暮らしの未来に待っていてくれますようにと、何だかどんな思いも無条件に受け止めてくれそうな聖母のような優しい表情を湛えているように見える夜空に浮かぶ月に僕は願いを掛けた。

あすは中秋の名月を迎え、15夜前日の大きな月の光が僕の心を静かに浸し何だか優しさに抱かれ満ち足りて行くような気持ちになる。

怪しき黒雲のない穏やかな夜空が広がっている夜だった。          


愛を自分の外側に求めても決して辿り着くことは出来ない。

自らが自らを磨き自分との誠実な関係を築き上げた末に、自らの心を鏡に映したように信頼関係を結べる人との出会いが訪れるもののような気がする。

釈迦もキリストもそういったことの大切さを説いて来た人のような気がする。

例えば幾ら友達がいたとしてもコロナワクチン未接種者が友達にそのことを語れないようないじめを受け兼ねない現実があるならば友達なんていないに等しいのではないか。

そしてそんな多様性を認められない社会など狂っていると僕は思う。


もう経済第1優先主義は限界だ。

人を真に幸せにすることが出来なかったという結果が出ているように思う。

そこからの脱却を図る政治的アクションなり国民の生活の中での自然に優しい消費行動にしか真の希望はないように僕は思う。

例えばiPhoneスマホなんて10年、15年、20年位持ったっていい訳だ。

直ぐに機種変が強要されているような資本主義社会。


お客様への真心あるサービス?


それって本当ですかとつい言いたくなってしまう。


いやいや、お金儲けでしょ?


と。

人々の暮らしの幸せを思い一生懸命働く人の思いすらも経済第1優先主義に呑み込まれ、社会構造の中で善意すらも偽善に絡み取られてしまう。

1つの批判は直ぐに次の矛盾を生み簡単に世の中とはなど誰にも語り尽くすことは出来ない。

だが社会システムの中枢にある経済第1優先主義の過ちの数々は確かに認め改善して行かなくてはならない問題だった。

皆が幸せになる未来の訪れを望むのならば。

僕は簡単に出すことなど出来る筈のないこのテーマに向かい時代に対峙しようとし続け足掻いていた。


物については良い物を愛し末永く使う。

勿論百均も便利だが、基本的には使い捨てではない持続可能な社会モデルを作るべき時が訪れていると感じていた。

愛着を持って優れた製品を大切に使う人生は、精神的に豊かで幸せだろうなと思う。

そんなことが当たり前の世の中になって欲しい。

友達も質より量みたいな流れだ。

何もかもが数優先の資本主義社会。


そんなのもう無理があるよ…


コロナの実態が知れない。

様々な情報が錯綜する。

不安がる人々は経済第1優先主義という名のカルト教団に救いを求め飛びついているに等しいような生き方になっているように思えていた。

国家とは宗教のようだ。

宗教はともすれば1つの神を崇拝するが余り狂気を帯び暴走する要素を常に秘めているもののように思う。

信仰は尊いが時に暴力となり恐ろしくもある。

そして信者にはその暴力性が見えなくなってしまうものなのだろう。


僕は宗教的なものは持たず1人間として苦労して自分でこの世の真理を掴みたいタイプの人間だった。

折角生まれて来たのだから何ものにも依存せず自力で生きて魂の修行を積みたかった。

その為にこそこの世は存在するのだろうと思っていた。

僕が求めていたのは、ちっぽけな1人間として大いに悩み迷い葛藤して愛や自由の世界へと辿り着こうとするロック道だった。

その道を極め続けて行けば、最後には宗教も国境も人種問題もなくなり様々なものへの依存感情は消えて地球市民という共同意識へと人類は目覚め真に幸福になれるのではないかと思っていた。


コロナウィルス自体存在しないという研究結果が既にあり、何かの目的の為にコロナパンデミックがでっち上げられている疑いが色濃く滲んでいると思える毎日の暮らしを送っていた。

何が本当なのか分からないがコロナパンデミックが実際に起こっていると仮定するならば、安全性の保証されていないワクチンの接種を推進するよりも国が国民の生活を保障して給付金を支払い閉じ籠って生活出来る社会モデルを作って行く努力をした方が問題解決には余程近道のように思っていた。

政治的に無策のまま自粛要請と解除を繰り返していても拉致があかないと思った。

結局実際にやったのはコロナワクチン接種推進である。

つまりはそれが目的だったと考えるのが筋の通った話ではないかと思った。

コロナワクチン接種を受ける人が多くなると、社会構造上富を得る人の暮らしは潤い権力を握った人々にとって都合が良かったという話ではないだろうか。

まず単純にそのことはあったのかもしれない。

実際にコロナパンデミックが起きているというのならば、在宅ワークが当たり前となり街に人が集わなくても生活が成り立つような社会モデルを本気になって作ってしまった方がいいのではないかと僕は思っていた。

それを実現させて行くには経済第1優先主義を諦め手放さなくてはならなかったように思う。

金より命。

人権が重視された命に優しい社会になって行くことを僕は望む。

欲を捨てれば不可能なことではないと思っていた。

命以上に大切なものなどないと僕は思う。

隣人の幸せを願い様々な権利を尊重しようとするなら自然と持てる意識ではないだろうか。

恐れや不安をベースにした経済第1優先の流れを感じていた。

多くの人々が生き残ることに必死で心が渇いて行き、温かな気持ちをきっと忘れてしまっていたのではないだろうか。

恐いから自分とは違う価値観の人を叩き争いを生じさせてしまっているように感じていた。

だけど恐いのは自分だけではなく批判を向けた相手も同じなのだと分からなくてはならなかった気がする。

そういった思いこそが本当の優しさへと通じるものなのかもしれない。



夜風が柳を揺らす。

葉音がカサカサと音を立て、時代の迷走の果てに生まれた柳の葉のざわめきが心を埋め尽くしてゆく。

万人の心に宿る悲しみの囁きのように。

時代の迷走の果ての月明かりの中で、僕は秋の夜に思い巡らせていた。

2021 北の国を忘れない 〜東日本大震災復興支援コンサート〜

あれからもう10年の時が過ぎ去った。
桜は何度も咲き乱れ、季節は幾つも過ぎ去って行った。


忘れえぬ人の笑顔

そんな人生の宝物をそっと胸の奥深くにしまい生きている人々がいる。
西日本に暮らす僕には決して同じ場所には立つことが出来ない。
そんな思いをずっと抱えてこの10年の歳月を過ごして来た。
大したことは何も出来なかったと思う。
僕がやれた事は本当に些細なことで、あの日の記憶を1ミュージシャンとして記憶に留めておこうと歌を作り歌い続けて来た。
あの日を境に誰かが背負ってしまった人生の悲しみを肩代わりして背負うなんてことは誰にも出来ないことだろうし、肩を気易く叩いて励ますなんてことはとても恐れ多くて出来ないことだろうと考えていた。

蕾になる前に息絶えた夢がある。
愛する人と一緒に見る筈だった風景がある。
津波に呑まれ瓦礫の街に埋もれた名もない日々達。

311とはまるで1種の戦争体験のようだったと振り返ってそんな風に思う。
風化して行く記憶。
あの日の記憶を思い出したくないという人がいる。
あの日の記憶を風化させず留めておきたいと思う人もいる。
何が正しいなんて第三者に言うことは出来ない。
その人の心の中で起こっている出来事は、当事者以外には誰にも予測不可能であり理解する事は困難なことだろうと思う。

あの体験の中で僕達が学ばなければならなかったこととは一体何だったというのだろう。
思わず天に向かい嘆きたくなるような苦しさや悲しさを感じていた人が沢山いたのではないだろうか。
その人達に何の罪はなくとも人生の試練はある日不意に訪れるものなのだろう。
このことに関していえば、それは間違いなく誰にでも例外なく言えることだったように思う。

北の国に起こった311という葛藤のドラマは、日本中いつどこにでも起き得ることだろう。
隣人の悲しみとして目を伏せる訳にはいかない自分自身の問題としてのテーマがそこにはれっきとして存在しているように僕は思って生きて来た。
僕はちっぽけな人間だから決して映画の中のヒーローのようにはなれないけれど、東日本に起きた311という葛藤のドラマを自らの人生の中で明日、いや今日にでも起きることとして捉え感じ考え生きる事から、人生の中で大切にしなければいけないことについて自分自身の思いを誰かに伝えて行くという事ならば出来るだろうと思った。

ガレキの街に埋もれた夢

まだ全然全ての夢を拾い救出することはこの国には出来てはいない。
勿論そんな事は絶対に不可能なことではあると思うのだけれど、少しでもそれに近づけるような現実社会の動きがあって欲しいとは思う。
避難生活を余儀なくされている人々がまだまだ沢山いた。
311という名の国難に遭遇して人生の中で大切なものを失ってしまった人々のその悲しみや痛みをもしも癒せるものがあるとするならば、それは世の中がその悲しみや痛みに対して温かな眼差しと息の長い関心を向けて行くことから始まることなのかもしれないと考えていた。

All Japan

原発を無数に懐深くに抱え込んだ小さな島国日本。
原発再稼働など本当はもうありえない筈だったのに。
原発がなければ、今迄通り大震災後等にやって来たことと同じ復興という筋書きが書けたかもしれない。
この国はまだ昭和の高度経済成長の頃の社会モデルから脱却出来ず、同じことの繰り返しを続けてしまっている。
きっとそのことが、深い絶望を抱え心に傷を負った人々に真の希望を感じることが出来なくさせているのではないだろうかと僕は考えていた。

頑張ろう東北

そういった言葉では既に乗り越えられない社会的なハードルが存在していたことを公の場で議論し合い、この社会が成熟に向かおうと懸命に努力を続ける姿を見る事は殆どなかったような気がする。
きっとそこにこの社会の偽善がある。
僕が歌いたかったのは、頑張ろう東北や絆という言葉に込められていたであろう意味とはたぶん違った別のAll Japanという気持ちだったのかもしれない。
僕に表現者としてそれだけのことを伝える力があるなどとは思ってはいない。
だが自分が心の深い部分で感じている思いを何とか伝えようとせずにはいられなかった僕がいたように思う。
311という名の戦争体験からの復興はまだまだ道半ばである。
あれから10年の歳月が過ぎ去った今も尚。


311から10年目という大きな区切りを迎えたこの3月。
コロナという新たなる試練の日々の中で、僕は1人ギターの弾き語りで311というあの日を思い出しながらミニライブを行った。
タイトルは2021 北の国を忘れない 〜東日本大震災復興支援コンサート〜とした。
自分のiPhoneを使って音声を録音しYouTubeに投稿しようと思った。
決して他人事ではなく自分の身にいつでも起こりうることとして考え、そういった意味に於いて当事者意識を持ち311というテーマに向かい音楽を作り上げ演奏したつもりだった。
311から10年目の今年、このミニライブをこの同じ社会に暮らす皆さんと共に分かち合うことが出来たらと願っていた。


2021 北の国を忘れない 〜東日本大震災復興支援コンサート〜
演奏曲
1 ALL JAPAN
2 PANDORA
3 愛しき人生
4 CHALLENGE
5 フレンチトースト
6 素晴らしき人生を


ALL JAPAN

All Japan 桜待つアーケード街
All Japan ホトトギス鳴き止んだ
311 ニュースは新宿帰宅難民
Ah 列島よ
ガレキの街に埋もれた夢 避難所に咲く花 風揺れ
涙落ちた大地黄昏てゆく 西へ沈む夕日輝き

All Japan 原発なけりゃと嘆く
All Japan 頑張ろう東北とキャッチフレーズ
311 波間で手離したお爺さん
Ah 若人逃がした
ガレキの街に埋もれた夢 拾い集める友になろう
夜空見上げ星は優しく歌う 会えぬ人の笑顔のように

All Japan All Japan 唇に歌を持て
素敵な未来を追い駆けよう All Japan


ガレキの街に埋もれた夢 声にならない虚しい朝
人の情け 肩叩いた温もりに生きる希望生まれて欲しい
愛しい人といつか見つめてた夢 胸にしまう傷を癒して

youtu.be

第19回 2021 新春 FRENCH TOAST de SHOW! 〜PHOENIX〜

PHOENIX

繰り返されて行く毎日の生活の中で、雑用に追われながら合間にフレンチトーストの新曲を制作する。
暮らしとはきっと、どんな立場にある人にとってもその人の暮らしの中では大抵の場合平凡に感じるものなのかもしれない。
例えばミュージシャンとして大ブレイクしたとしても、ジェットコースターのような起伏に富んだ人の羨む夢のような人生の成功を手にしても、その先に辿り着くのはその人の人生の中では平凡な日常なのではないかという気がしていた。


音楽の世界でいえば、僕らミュージシャンはビートルズの成し遂げた20世紀型の成功モデルを夢見その模写を完成させようとあくせく汗を流し生きて来たように思う。
僕は18歳の春上京して、夏になった頃にその事実を目の当たりにする思いで深い絶望感に苛まれながら挫折感を味わっていた。

煌びやかな虚飾の大都会のアスファルトジャングルには夢がない

まるで僕は玉砕し祖国に帰る手立てすら失った兵士のような気分で暫く過ごしていたけれど、結局田舎に戻った。
精神的にヅタボロになってしまっていて、這い上がるのに相当苦労した人生をその後送ることとなった。
振り返れば長い話だ。

物質的成功や社会的成功は確かに素晴らしいかもしれない。
その価値を強く信じた周囲の人や社会から眼差しを向けられ、判断され見下げられ傷ついたり褒められまんざらでもない気持ちになりながら人は人生の旅を続けているもののような気がする。
だがその価値基準の中心は自分の心の外側にあるものだ。

時代や社会が重要だとする幸福の価値観に基づき、自分の人生を捨て去るような生き方を人は無意識に選びながら社会や時代に順応して行く生き物ではないだろうかと僕は思いながら生きて来た。
だがそれでは人生とても寂しくて僕は堪らない気持ちになった。
人生の中心に自分の心が置かれていないのだから。
だが人は社会や時代の重要とする価値観を欲する。
周囲の人や社会や時代から評価されないと社会的に抹殺され生き残れなかったからだろう。
それは1つの超リアルで、ある種絶対的な掟だったような気がする。


その掟に異論を唱えたのが奇しくも今回のコロナ騒動ということになった気がする。
今迄のような調子で社会に出て行き経済活動を続けることがままならなくなった。

働かざる者食うべからず

誰が言った言葉か知らないしどういった意味の込められた言葉かも分からないのだけれど、僕らはそんな言葉を呪いの呪文のように聞かされながら大人になって来たように思えていた。

本当にそうだろうか

僕は疑問を人生の中に呈す。
働くという事の概念自体が怪しく思えていた。
経済活動に繋がる仕事のことを人は労働と定義している。
だがそれは資本主義社会の中での1つの価値観側から見た定義でしかなかった。
そのことの意味に深く気付く人間はたぶん余りいない。
真の労働とは、人間が人間として生きて行く為に必要な根本原理を守り愛を貫く営みの全てではないかと僕は考えている人間だった。
言葉で簡単に語ることなど出来ない大きなテーマだと思う。
経済活動に繋がっていなくても、人間性を重んじその価値に沿って自分の信念を貫き生きている人間を僕は高く評価したい。
社会がどんなにその人間を見下げて馬鹿めていようとも。

コロナで自粛が続き、夜の街に繰り出し仲間達と宴会をして日常の憂さ晴らしをするなんていうことが難しくなった時代。
飲み会だけが人生の唯一の楽しみだという意見を耳にすることがあった。
人生に特別な目的は見出せないし、大好きな仲間達と共にお酒を飲んだり美味しい物を食べてワイワイとお喋りをしながら楽しく過ごす時間に心救われていたということかもしれないと思っていた。
経済活動がままならない日常と、飲み会が開けないというコロナの時代の現実。
これは2つで裏表一体の1つの現実という事だった気がする。

たぶん僕達は自分との向き合い方がもっと上手になれば、コロナの時代を割合上手く乗り越えて行けるのではないだろうかという気がする。
ありふれた平凡な日常生活の中に豊かな喜びや幸せを見い出すことが出来るようになったら、きっと人生に広がる風景は随分違ったものになって行くのではないだろうか。
人生の中心に自分の心の感じ方が大切に置かれていて、心や命を大切にする価値観に沿って生きられるようになったとしたらこの社会は随分平和になるのではないかという気がする。
生きて行く為に社会や時代に順応することで、人は自らの本心すら忘れ去ってしまう。
そしてストレス発散に憂さ晴らしが必要となる。
ストレスとは自分を生きていないとから発生するものと定義し考えてみる。
僕独自の仮説を語ってみているが、間違いなく事実だったのはコロナによって僕達1人1人が生き方を根本的な部分から深く見直さなければいけない時が来ていたということだったように思っていた。

自分を生きている人は、きっと生き生きしていて喜びに溢れている。
だがそれを許される環境に身を置ける人は少ないかもしれない。
大方の人は、自分らしさを表現しロマンを追い求め生きるなんて事は許されない状況の中で人生を送って行くものではないだろうかと思う。
社会は生産性を高めるために機能している。
ロマンを抱き生きることは不合理を生み生産性には乏しいものかもしれない。
これはロックとビジネスとの関係にも似ている。

だがコロナの時代が僕達に要求し始めたのはロックであることだった。
様々な分野で人に優しいサービスの提供が要求され始める。
自らの利益や生産性を追い求める姿勢では時代に向き合えなくなった。
お客様の生活と幸せを願い真心を込めてサービスする者だけが時代によって生かされ始める。
生き方が本質に沿っていなければ淘汰されて行く。
ロックとは本質という意味に置き換えて考えることが出来ると僕は思う。


本当の豊かさってなんだろうか。
ダイヤモンドはなくたって、青空を見上げ幸せだと感じられる心があれば人間は本当はそれで良いのではないだろうか。
健康を損なってみて初めて健康の有り難さに人はようやく気が付くものだという気がする。
本当は元気ならそれで人生十分な筈だったのに。

一体僕らは何に思い悩んでいるのか。
バブルという幻想がまだ僕の心の中にはあったかもしれない。
かつての経済大国日本は、既に精神性を失いかなりの後進国と思える迄に落ちぶれ後退しているように思っていた。
そして第二次世界大戦後にアメリカの傘の下に守られながら甘やかされた生ぬるい平和の中で生活を送り続けて来たことで、世界各国とは切り離された孤島に生きる僕達は文明病に取り付かれてしまう。
それが自殺者ワーストワンの国の成り立ちだろうと思う。

何でもあるのに何もない国。
当然こんなことでは駄目だ。
駄目になったことを批判しているのではなくて、強く生きて行く為の勇気が欲しくて僕は心の中でそう叫ぶ。

そんな思いを抱えながら2021年の桜の季節を迎えようとしていた。
今年こそは皆にとっての真の希望に繋がる1年になってくれますように。
年明け早々の話になるが、僕はフレンチトーストの2021年初となるショー「FRENCH TOAST de SHOW!」を開催した。
コロナの時代を生きる我が同胞である日本国民の皆様に語り掛けるような気持ちで行ったコンサートだった。
僕の2021年の人生の旅はそんな風に始まって行った。
また定期的にフレンチトーストコンサートをどんな形になるかは分からないがやって行こうと思っていた。

幸せの青い鳥を追い求めるような人生を彷徨うのは嫌だ。
都会の森の深い霧に覆われた樹海の中で、人は人生のという名のラビリンスへと辿り着く。
天へと突き刺さる摩天楼の最上階へと掛け上ろうとも、夜の星は掴めない。
僕らはまだ昭和の時代の残した東京五倫の頃の夢の続きの幻の中にいる気がしていた。
高度経済成長の頃の夢から覚め、僕達は新しい現実を生き始めなければならないと思っていた。
本当の幸せというテーマに向かい。

どんなに大成功したとしてもこの街では誰もがみな孤独だ。
全ては移ろって行く。
人生の中で掴み取ることが出来る確かなものなどは何もない。
その事実に気付いた時、人はきっと虚無感に襲われるだろう。
その虚無感から這い上がり立ち上がることが、本当の人の心の再生であり国の復活のような気が僕はしていた。
その1連の葛藤劇を僕はフェニックスと呼んだ。


第19回 2021 新春 FRENCH TOAST de SHOW! 2021.1.10

第19回 2021 新春 FRENCH TOAST de SHOW!
演奏曲
1 幾つもの季節
2 FRENCH TOAST de SHOW!
3 午前0時のMOONLIGHT
4 HAPPY NEW YEAR
5 STAND UP JAPAN
6 人生に幸あれ
7 フレンチトースト
8 同窓会
9 赤ヘル
10 先生
11 全員集合 de SHOW!
12 小春日和
13 PANDORA
14 CHALLENGE
15 I BELIEVE
16 素晴らしき人生を
17 母のバラード
18 幾千万億のSTARDUST
※12曲目に演奏した小春日和は、この日歌った歌詞を作り替え変更しようと思ったので公開せず編集してカットしてあります。

第18回 FRENCH TOAST de SHOW!

皆様お久しぶりです。
6月以来のブログの更新となります。


この間の日曜日の12月20日に第18回FRENCH TOAST de SHOW!を開催しました。
無観客でバンドメンバーもおらず僕1人でのギターの弾き語りによるコンサートになりました。
全18曲を歌いました。
まだまだ練習不足であった為に間違いも多く、完成度は低いライブでリハーサルに近いものだったように思います。
新曲に至っては歌いながらメロディーを思い出せず音程が怪しい箇所があります。
そういった状況でのライブになっていて音源を残していましたが失敗が多く公開するかどうか迷っていました。
ですが僅かながらでもフレンチトーストライブを聴きたいという方がいて下さるのかなと思っているので、未完成なコンサートであっても音源を公開しようという風に思いました。
YouTubeにアップしましたのでお時間がある時に是非楽しんで聴いて頂けたら嬉しいなと思っています。
MCでFRENCH TOAST de SHOW!は5月以来であるという内容の話をしていますが、その後6月に1度きららカフェさんでやっていたのを忘れてしまっていました。
リハーサル的にのんびり演奏して過ごしたので、何となく本番という感じがしなかったからかすっかり忘れていました。
この場を借りて訂正させて頂きます。
今回のライブは僕としてはまだまだ完成度を高めて行きたい内容になっています。
折角作り上げたコンサートのセットリストなので、少し演奏曲の内容を変えようかと思っていますがほぼ同じメニューで近々もう一度やり直して録音し出来が良ければ音源を公開しようという風に思っています。
12曲目に歌ったJAZZYに今宵はバラ色SCAT SCATという曲は、まだ余りにも練習が足りていなくて構成も未完成だなと思い編集してカットしました。
それとSTAND UP JAPANの時、キーを間違えて少し歌いやり直しました。
その時のキーを間違えて少し歌った部分は必要がないなと思い編集してカットしてあります。
後はノーカットでそのままの音源となっています。


今日YouTubeで紹介したフレンチトーストライブの音源を聴いて下さる時間が、皆様にとっての憩いのひとときになってくれれば嬉しいなと思います。


第18回 FRENCH TOAST de SHOW! 2020.12.20

第18回 FRENCH TOAST de SHOW!
演奏曲
1 幾つもの季節
2 FRENCH TOAST de SHOW!
3 HAPPY NEW YEAR
4 人生に幸あれ
5 フレンチトースト
6 同窓会
7 赤ヘル
8 先生
9 全員集合 de SHOW!
10 小春日和
11 PANDORA
12 JAZZYに今宵はバラ色SCAT SCAT
13 CHALLENGE
14 STAND UP JAPAN
15 I BELIEVE
16 素晴らしき人生を
17 母のバラード
18 幾千万億のSTARDUST

姫百合の季節

f:id:misty74:20200625184732j:plain

姫百合の季節

梅雨の中休み。
土曜日の午後、2月以来となるきららカフェでのフレンチトーストライブを楽しんだ。
バンドメンバーは僕とマスターの2人だけだった。
ひかる君ときはぴーは元気にしていただろうか。
コロナ自粛中にて無観客でのコンサートだった。


コロナ自粛中に作った幾つかの曲も演奏した。
古いナンバーから新しい歌迄、フレンチトーストのオリジナルナンバー全18曲を存分に歌い演奏した午後となる。
マスターは、カホンやコンガを叩いたりマラカスを振っていた。
僕とマスターの演奏が曲によってはかなり上手く絡み合い、サウンドが優しくグループしていたように思えた。
僕はスパニッシュギターを弾いていた。
ナイロン弦独特のまろやかで深く優しい音色が好きだった。

お客さんなしでもいいから、そろそろきららでライブ活動を再開したい。
そんな思いからカフェのママさんに電話連絡を取り、土曜日はご都合がいいかどうか伺った。
すると大丈夫とのことだった。
そんな経緯から迎えた土曜日の午後のきららでのライブだった。
コロナが流行り出して2月からライブ自粛に入った。
マスターと2人での完全アコースティックライブは、初期のフレンチトーストのバンド編成での演奏スタイルだった。
一切の飾り立てをしない生音が、心地良くカフェの空間を満たしていた。
派手なエレキサウンドも好きだけど、素朴なアコースティックサウンドも好きだった。
たぶん時代は回帰する。
エレキサウンドや打ち込み等によるデジタルサウンドが行き着く所迄行った感があり、結局最後にはたぶんシンプルな歌の力が見直されて必要とされるのではないだろうか。
僕にはそんな思いがあった。
虚像をミュージシャンが演じ、メディアへの露出の際組織力を投じてカリスマを作り上げる時代はもう随分前に終了したと感じていた。
素晴らしい曲をシンプルに演奏すること。
広島の片田舎でさり気なく暮らしながら、目指す所はとにかくより良い曲を作りラフな自然体での演奏スタイルになっていた。
何事も自然でないと心が受け付けないような時代の到来を予感していた。


この日特に記憶しておきたいのは、千羽鶴というバラードを演奏した後に始まったマスターの昔話についてだった。
千羽鶴は、広島で起きた人類史上に残る悲劇へと思いを馳せたナンバーだった。

ピカドンを忘れないように

ふる里広島の遠い悲しみの記憶を歌っていた。
演奏が静かに終わり、グループ感が良かったことをマスターに伝えていた。
無邪気な少年のようにマスターは楽しそうに演奏してくれていた。
そしてそろそろ次の曲を演奏始めようかと思いながら、一瞬束の間の沈黙が生まれた時のことだった。
マスターが千羽鶴の詞の世界に触れて来た。
あの遠き広島の出来事について。
マスターと会話のやり取りをしながら、次第にマスターは思い出話を始めた。
亡き父からの伝言のような体験談が語られ、生々しい広島の記憶が不意に僕の目の前に浮かび上がって来た…


第6潜水艇は数奇な運命を辿った。
岩国沖かどこかでどうやらラダーか何かが故障したとかで、2度と沖に浮上することが出来なかったとのことだった。

マスターのお父さんが、当時広島の明治堂というレントランでコックとして働かれていた途中の話のようだった。
呉にあったらしい海軍の施設で食事を作り出されていたらしく、そんな接点から第6潜水艇との関係を持っていた。
マスターが呉について語った時、僕は直ぐに潜水艦をイメージした。
呉という街イクオール潜水艦の図式が、僕の心の中にはあった。
子供の頃、父が潜水艦を見に呉へ連れて行ってくれたことがあったからだった。

第6潜水艇は再浮上することが不可能となり、中で艦長が天皇陛下宛に遺書をしたためたようだった。
その重っ苦しかった筈の第6潜水艇内の空気感を想像するとやり切れない思いになった。
マスターのお父さんは、第6潜水艇の捜索にも関わられていた。
そして潜水艇は発見され、蓋を開けて捜索隊が中へ踏み入ることとなる。
言葉にはし難いような光景が広がっていたのだろう。
マスターのお父さんは遺書を発見したとのことだった。
その話は現代に迄語り継がれ、江田島にある海上保安庁の関係の学校の教科書に載っている話なのだそうだ。
歴史的資料として戦争の爪跡が残る。
僕達はそれら1つ1つの無言の証言に如何に向き合って行くべきだったのだろう。
慰霊祭が毎年行われ、遺族が高齢になる迄テレビ局もやって来て続いたらしかったが今はもうなくなってしまったようだった。
マスターのお父さんは、1年に1度訪れるその慰霊祭に毎年参加されていたとのことだった。
戦争を知る世代がどんどんといなくなり、戦争体験の風化は止むを得ず加速していたのだろうと思う。


沖縄の慰霊の日が、今年もまたやって来る。
梅雨の季節と共に…

雨音が姫百合の女学生達の悲しみを歌うかのようだ。
幾度季節が過ぎ去ろうとも、決して忘れてはいけないドラマがある。
例えば第六潜水艇の数奇な運命を辿った話がそうだ。

昭和20年の夏のあの日…
マスターのお父さんは、西の空にきのこ雲を見たようだった。
広島から越して来ていた三原からの光景だった。
随分遠く距離が離れていても、三原に迄あのきのこ雲は姿を現したのだ。
まるで悪魔の支配が天を覆い尽くすように。
きっとそんな悲しい光景であったに違いない。

マスターには、実際に会ったことのない戸籍上に残るお兄さんが2人いた。
皆戦争に行って2度とは帰って来なかった。
親子にでもなれる程歳上になるお兄さん達。
マスターが産まれて、ご両親はさぞ嬉しかったことだろうと想像する。
まるで戦争に行った切り帰らぬ兄達の再来を迎えたかの如くに。
マスターにはお姉さんも2人いたそうだけど、ご両親やご家族にとっては特に男の子の誕生には特別なドラマがあったのではないだろうかと思っていた。

f:id:misty74:20200625185033j:plain
取り敢えず、きららでフレンチトーストライブを復活させることが出来て良かった。

マスターからのリクエストで繰り返しワンコーラス程を演奏した曲も数曲あった。
どんな風に演奏すると合うかマスターは試していた。
学生時代の部活のような爽やかなノリで、マスターと音楽を通じ楽しいひと時を過ごせた土曜日の午後に感謝していた。
天候にも恵まれて幸せで満ち足りた時間が流れて行った。
ライブをしながら、曲の合間に雑談を交わし飲むコーヒーの味が格別に美味しく感じられていた。

ママさんはターバン作りに夢中の様子だった。
娘さんの愛犬の服も手作りで作られ楽しまれているようだった。
ママさんのハンドメイドショップ、ATELIER Kのお仕事を日々楽しまれながらママさんは過ごされているようで嬉しかった。

時代が幾ら激動しようとも、きららのカフェテラスのシンボルツリーは何事もないかのように季節の移ろいにその身を任せ生命を謳歌していた。
またこんな風に、きららで度々ライブをさせてもらえたらと思っていた。


第17回 FRENCH TOAST de SHOW! ダイジェスト 2020.6.20

第17回 FRENCH TOAST de SHOW! 2020.6.20
演奏曲
1 MISTY
2 FRENCH TOAST de SHOW!
3 午前0時のMOONLIGHT
4 BLUEな時代にSWING JAZZ
5 PASSION
6 I BELIEVE
7 千羽鶴
8 CURRY RISE SATURDAY
9 お喋りなPERCUSSION
10 きららカフェ愛LAND
11 BLUE BIRD
12 PANDORA
13 STAND UP JAPAN
14 日の丸
15 フレンチトースト
16 CHALLENGE
17 素晴らしき人生を
18 OH THANK YOU OH GOODBYE

五月雨のMONDAY

f:id:misty74:20190210212138j:plain

五月雨のMONDAY

5月18日 月曜日に第16回 FRENCH TOAST de SHOW!を開催しました。
前回同様にコロナ自粛中の為、バンドメンバーもお客さんもいない僕一人でのライブになりました。
ギターの弾き語りで17曲を歌いました。
演奏曲も前回と同じになっています。
前回よりももう少しいい歌を歌いたいなと思い、より良く完成度の高いコンサートを目指して敢えて同じ演奏曲にしました。
アドリブで曲に台詞が入っていたり、MCの内容が変わっていたりという違いはあります。
僕の思い描く歌のイメージとの隔たりを、前回よりも少し縮められたかもしれません。
前回と同じ曲構成のコンサートになりますが、自分では少し完成度の上がったように思えているこの日のライブを楽しんで下さる方がいらっしゃるかもしれないなと思い、YouTubeにアップしましたので紹介します。


第16回 FRENCH TOAST de SHOW! 2020.5.18 -コロナ自粛中-

 

五月雨のMONDAY

五月雨の降る月曜日。
確か夕刻辺りから僕はFRENCH TOAST de SHOW!を開催した。


FRENCH TOAST de SHOW!として第16回目のコンサートだった。
前回同様の演奏曲にしたのは、もう少し理想に近い演奏が出来ないかと思った為だった。
アドリブで曲に台詞を入れたり、MCの内容が違うという変化はあった。
いつも理想的な演奏が出来る訳ではなくて、取り敢えず自分としては80点をこえたなと思えたらOKという感じでライブを続けて来た。
80点以下だとかなり不満足で、最低でも自分で合格ラインとしていた80点をこえられるよう努めていた。
わざわざ時間を作ってライブを聴いてくれる方達がいた。
だからなるべくいいステージをやりたいなと思っていた。

時折車がタイヤの水しぶきの音を立て走り去って行く。
その他にはたぶん殆ど物音がすることはなかった。
皆無だったかもしれない。
静けさは演奏への集中を助けてくれていた。
僕の歌はお祭の賑わいの中では馴染み難い性質だったかもしれない。

やり直した甲斐があって、かなり理想的なコンサートが出来たなと後で録音を聴いてそう思った。
コロナ自粛中に入り2回目のコンサートは納得出来るものとなっていた。
バンドメンバーやお客さんがいないことは残念だったが、ギターの弾き語りも悪くはなかった。
少年の頃歌い始めた時から、基本的にずっとこのスタイルでライブを続けて来ていた。
まず1人ででもちゃんとライブがやれて完結していること。
僕が自分に要求していたミュージシャンとして最低限必要不可欠な条件だった。


次は第17回目のFRENCH TOAST de SHOW!になる。
共に暮らしている母がご近所さんと話したことを教えてくれていた。
今年1月に高島チャペルでのライブを初めて聴きに来てくれていた方で、コンサートを楽しんで下さった様子が母から伝わって来ていた。

良かった

そう思った。
ライブ後にもたぶんこの方が電話を掛けて来て下さり、母にライブを楽しんだという内容のお話を伝えてくれていたのだけれど、改めていい感想がもらえたことを有り難く感じていた。
ライブにはご近所のお友達と2人で来て下さっていたらしくて、その方とライブ後は直ぐに解散せずどちらの家だったか聞いた気がするけど忘れたが、お茶会をしたらしく余韻を楽しまれたとの話もその時の電話で話して聞かせて下さっていた。
少しずつでもコンサートを通して僕の思いを社会に伝えて行けるように、改めて頑張ろうという気持ちにさせてもらえる話だった。

人生は短い。
コンサートは今の僕にとって生きた証だった。
アルバムを作りたいという思いをずっと持っていたが、なかなか条件が揃わずコンテンツはライブ動画やライブの音声になっていた。
YouTubeで誰でも視聴出来るよう公開していた。
僕の歌を必要としてくれている人はほぼいないのかもしれないのだけれど、いつか未来に出会うかもしれないリスナー様の為にという意味においてもコンサートをコンテンツとして今は残しておきたいと思っていた。

 

第16回 FRENCH TOAST de SHOW! -コロナ自粛中-
演奏曲
1 DREAM COME TRUE
2 FRENCH TOAST de SHOW!
3 PASSION
4 千羽鶴
5 夏ロマン
6 CURRY RISE SATURDAY
7 ふる里いと恋し
8 きららカフェ愛LAND
9 BLUE BIRD
10 PANDORA
11 STAND UP JAPAN
12 日の丸
13 フレンチトースト
14 母のバラード
15 CHALLENGE
16 素晴らしき人生を
17 OH THANK YOU OH GOODBYE

第15回 FRENCH TOAST de SHOW! -コロナ自粛中-

新型コロナウイルス感染拡大予防の為フレンチトーストライブを自粛中なので、バンドメンバーは参加しておらず僕一人でのライブをしました。

お客様もなしでやってます。

そのライブの音源をYouTubeにアップしたので紹介します。
全17曲をギターの弾き語りで歌い、コロナや現政権等について少しお話しさせて頂きました。
是非御視聴して下さいますよう宜しくお願い致します。

 


FRENCH TOAST de SHOW! 2020.4.26 -コロナ自粛中-

演奏曲
1 DREAM COME TRUE
2 FRENCH TOAST de SHOW!
3 PASSION
4 千羽鶴
5 夏ロマン
6 CURRY RISE SATURDAY
7 ふる里いと恋し
8 きららカフェ愛LAND
9 BLUE BIRD
10 PANDORA
11 STAND UP JAPAN
12 日の丸
13 フレンチトースト
14 母のバラード
15 CHALLENGE
16 素晴らしき人生を
17 OH THANK YOU OH GOODBYE