お久しぶりです。
フレンチトーストの活動を暫く休んでいたのですがまた再開しました。
最近の僕はソロ活動に力を注いでいました。
ソロ活動を皆様に伝えているブログ「シュールにROCK決めこんで」を更新していますので、お時間がある時に是非覗いてみて頂けたら嬉しいです。
今はソロ活動とフレンチトーストの活動を並行して行って行こうかなと思っています。
今日は最近制作した月柳という散文を紹介します。
月柳
柳の葉が夜風に歌う。
この国に生きる人々の心を。
月明かりがそっと優しく降り注ぐ秋の夜のことだった。
僕は大切に思う人達の笑顔を思い浮かべながら月見酒を一杯煽っていた。
小川の微かなせせらぎの音。
川の鯉は寝静まり、艶やかなるその色取り取りの模様も水の底に折り畳んだ十二単のように流れる水に揺らめき気配を潜めている。
上等の織物を染め抜く日本の伝統技術。
例えばそんなものを守る繊細な優しさがこの国の暮らしに欲しかった。
右向け右で皆心を均一化され生きて来た現代を思いとても悲しく思っていた。
月明かりに照らし出された夜の街が、しっとりと秋の気配に包まれその風情を味わう。
世の中はコロナコロナで大変な大騒ぎを続けている。
僕はこの人生で幾度か大きく世の中の流れを疑った経験がある。
まず最初は小学校に入学した時だ。
自分に与えられたクラスの席に着き授業が始まった時、何か不味いことが始まったと感じ僕の心は立ち止まってしまった。
義務教育とは一体何なのか?
僕がこの世に誕生して以来最初に覚えた社会制度に対する大きな疑問だった気がする。
義務教育の義務とは国が国民に背負う義務という意味だか、実際には子供が国家から義務を課せられているといったニュアンスを僕は感じている子供だった。
クラスの仲間達はどんな風に感じているのか直ぐに教室の中を見渡したが、誰1人として僕のように感じていない様子だった。
皆の表情を見ていてそう感じられた。
小学校中学年位になるとやがて訪れる中3の高校受験を思い、まるで死刑執行の時を言い渡された死刑囚のような気持ちでいた。
世の中とは本当に恐ろしいものなのだなと感じていた。
人間的な総合的能力をフェアに区別しふるい分けるということには、個人の向き不向きという問題について明らかになることであるし適材適所を知ることが出来幸福に繋がる結果に至る可能性があると思うので賛成だが、国家の政策の枠の中で能力を競わされているということにとても大きな問題意識を持っていた。
これは人間性の排除だと思った。
そして時代は流れ311が起きた。
食べて応援という国を挙げての大キャンペーンが展開する。
大企業が軒並み名を連ね賛同していた。
放射性物質の検査が行われてはいたが、まるで当てにならない内容に信用することが出来ない状況だった。
まさかここ迄日本社会が経済第1優先主義になびいて行くなどとは僕は想像していなかった。
いまだに原発依存を手放す気のない社会が続いている。
そしてコロナパンデミックが発生する。
国は一気にワクチン接種へと国策の舵を切る。
ワクチンは安全性が全く実証されていない代物だったが、国民の多くは社会的流れに従い信用していた。
311とコロナパンデミックは逆境の続く時代の出来事であったと思うが、その試練に反応する国民の意識に変化の兆しは余り見られないように思えた。
試練に耐え成長するという流れよりも、社会風潮に流されて行くような国民全体のムードを感じている僕がいた。
全てが経済第1優先主義に染め抜かれているように感じていた。
経済第1優先主義とは愛や理想といったものを諦めている姿だと僕は思っていた。
僕はその生き方にとても大きな疑問を覚えてならなかった。
2021年秋。
東京五輪は閉幕し秋が訪れ、2度目のコロナワクチン接種を終えた人が相当数いるという状況だった。
インドやシンガポールやイスラエルといった国々もワクチン接種を推進してやって来ていた。
そんな国に限って感染拡大が起こっている。
それは日本も同じことだった。
このことの意味を国民は少しずつ理解して行かなければならない筈だった。
コロナワクチン接種自体がコロナ感染を広げているのではと考えてみる視点を持つことは必要なことだと僕は思っていた。
311の時の原発事故の問題に対してもそうであったが、僕は専門家ではないから放射性物質の及ぼす人体への影響について確かな意見を述べことは出来なかったし今回のコロナやコロナワクチン等について責任ある意見を述べることが出来る訳ではなかったが、これが真実に近いことではないかと感じていることに対する思いを具体的に表明しながら時代を語ろうとする表現活動を続けたいと思っていた。
勿論考えを強要するつもりではなく、一意見として誰かにとって自分の考えを整理する為に役立ててもらえたらいいなという風な思いからだった。
見当違いなことを思っていることもあったのかもしれないが、それを踏まえた上で僕の思いを共有してもらえたならば有り難かった。
健康で綺麗だった血球がワクチン接種後に歪な形に変わり、無数のナノ粒子というものが現れているのを顕微鏡で覗いた写真ではないかと思うがネットで見掛けた。
スパイクタンパクはワクチン接種により増殖するという結果が国立感染症研究所により7月21日に既に発表されていた。
たぶん血栓が出来るという意味なのだろうと思った。
5Gがコロナを重症化させる要因の1つであるとする情報もネットの世界には存在していた。
コロナワクチン接種による結果が出ていたが、メディアがそれを誠実に伝えようとしていない現実がたぶん続いていたのではないかと思う。
ジャーナリズムなきメディアは何の信用性もない1大洗脳キャンペーンでしかなくなっているという思いでいた。
支配者層にとって不都合な真実を視聴者に伝えないように思えていた。
コロナは伝染病ではなく血栓症だとロシアからもうはっきりとした医学的研究結果が出されていた。
それが絶対的なものかどうかは分からないが1つの確かに存在する研究結果ではあったのだろう。
コロナにより亡くなった患者の身体を使い医師達が研究を進めたようだ。
そしてコロナウィルス自体存在しないと結論付けている。
血栓が出来血液が凝固して人を死に至らせているということのようだった。
何故それをメディアが伝えていないのか?
コロナワクチンが人体に悪影響を与えているという現実があるとされる研究が出ているのに、何故それを一切メディアが伝えないのだろうか。
頻繁にテレビ等の情報を取り事実確認を取っていた訳ではないが、コロナは血栓症でスパイクタンパクはワクチンにより増殖するという結果が無視されているようだった。
もうコロナウィルス自体の存在の否定やワクチンの有効性に対しても完全に現実として判定が下されている実例が挙げられているのに、この日本社会はそれを認めようとしていないと思う。
この国のコロナ感染対策が過ちであったことを証明するだけのカードが出揃っているような状況ではないかと思っていたが、人々を恐怖により扇動しようとする権力の暴走は依然止まらないように見えていた。
社会構造が変化しない限り、負の循環のスパイラル運動は止まる事はないのではないだろうか。
そしてその運動を支持しているものは経済第1優先主義だと僕は思った。
国民が政府の扇動に従っている訳は、自らも経済第1優先主義に毒されてしまっているということだろうと思う。
そして経済第1優先主義とは、人々の人生への絶望と諦めを物語っていると僕は思う。
どうせ社会に抗っても無駄
諦めを土台にこの日本社会が成り立っているということが分かる気がする。
その諦めを培ったのは、小学校に入学し義務教育課程がスタートした瞬間から子供達の心に広がって行った筈の社会に対する扇動された負のイメージによる人生プランの組み立てと自分らしくない歩みの継続の結果なのだろうと僕は思っている。
今は与党である自民党内で新党首を4人の候補が争っている。
菅首相は間もなく総理の座を明け渡す。
そしてまた誰が総理になったとしても今迄と代わり映えのないような政権が誕生するのだろう。
もう先のシナリオが見え見え同然のように思えていた。
北朝鮮が弾道ミサイルを日本の海域に打ち込んで来ただとか、コロナ感染で重症者数が増えているだとか恐怖による扇動はもう真っ平だった。
全てマッチポンプ。
恐怖を与え社会構造に従わせる為の劇であることはもはや明白だと思った。
犯罪者並みの発言をする人が政治の表舞台で堂々と活動を続けている。
獄中生活を送らなくてはならない程の犯罪が見過ごされていた。
そしてコロナワクチン接種について等、国民同士で意見が食い違いリンチが横行している。
沢山の人が今幸せを感じていないのだなとつくづくそう思う。
ネットを使えば子供でも簡単に集められるようなコロナに対する様々な情報を、バランス良く中立的に全て並べテレビのワイドショー等が取り扱うようならばどれだけ平和な世の中になるだろうかと思う。
メディアによって騙されているにしても、その情報を信じてしまうという事は国民も同じような価値観を持っているということだろう。
つまりは意識が共鳴していて同じレベルだという事になると思う。
結局メディアとは国民の声なのだなぁと思う。
政治もそれは同じことだろう。
昭和の繁栄の時代が終わりその浮力さえも尽き果て、そんな近代国家を築き上げて来た礎が経済大国崩壊の末に姿を現している。
その礎に刻み込まれているのは神風が吹くという言葉だ。
戦争責任を取っていないこの国は、未だそのファシズムを土台とした国家の礎の上に日常を繰り広げていた。
コロナワクチン接種は神風が吹くという号令と同じ意味を持ち、そしてどうしようもなくなったら集団自決を強要される社会だ。
日本国民の根性に宿ったファシズムの狂気に気が付かなければならないと僕は思う。
例えば不登校児に負のレッテルを貼り叩くこととも繋がるし、障害者を蔑むことにも通じていると思うが、コロナワクチン接種を拒む人々が差別意識により現代に於いて叩かれていてしまっていた。
人権が奪われ自由に思想を語ることの出来難い社会の実態が浮き彫りとなっていた。
皆右向け右で大方の人がそんな風な差別意識を持ってしまっていたように僕には見えた。
無自覚の内に。
今この国に必要なのは、以前の生活を取り戻す為に各政策の方向性を打ち出すということではないような気がする。
そうではなくて、今ある経済第1優先主義というもの自体を方向転換させるべき時だと僕は思う。
そんなことを掲げた候補者が1人もいない自民党には全く希望が感じられなかった。
必要なのは脱原発であり、コロナワクチン接種による人体への被害の実例の誠実な検証結果報告を伝えるようとするマスメディアのリテラシー等に違いなかった。
それを抜きにして何を今更政治だのジャーナリズムだの言えるというのだろうか。
過ちであったという色々な事はなかったかのようにしてしらじらしく突き進む政治やメディアの在り方にはとても強い憤りを覚える。
国民はコロナワクチン未接種者を集団リンチしている。
第2次世界大戦時に神風が吹くという号令に異論を唱えた者を非国民と叩いたのとそれは全く同じだ。
経済第1優先主義はファシズムに通じる。
そして経済第1優先主義はいじめ社会を築いて来た根底理念でもある。
人は社会から自分が受けたいじめを自分よりも弱い者に押し付ける。
いじめの連鎖はそうして続いて行く。
コロナワクチン接種の問題から生まれている推進派とワクチン接種の流れに疑問を持っている人々との間に生まれている衝突は、いじめ社会の根源的な問題を象徴していると僕は思う。
それぞれの違いをただ認め合いたらいいのにと思う。
コロナワクチンを接種しないとコロナが確実に感染拡大して行くという確かな医学的データはないように思う。
コロナワクチンを接種したからこそコロナの感染を広げているという情報がある。
ワクチンを接種するかしないか、どちらを選択しても両サイドにそれぞれの正しさがある。
そして命が危険に脅かされるというギリギリの所で違いを認め合う思いやりの心を持てるかが試されているように思う。
僕達が望んでいるのは自由で平和な未来である筈だ。
その未来を迎える為に今日僕達に一体何が出来るのだろうか。
同じ職場内にいる人々や親しい家族との会話の中でコロナワクチン接種に対する考えを意見し合った際、様々に個人の考えが違っているだろう。
生き方の根底を指し示す個人の思想が良く表れるテーマだと思う。
大日本帝国玉砕の遠き昔、置き去りにしてしまったテーマが今日に姿を表しているように思った。
戦争責任は国民にもあったと思う。
とてもシビアなテーマであり、僕達の魂が自分の考え方や生き方とは違う他者の人生観すら許容しながら許し合い認め合って、本当に平和な世界を実現して行く道を切り開いて行くことが出来るかどうかが懸かった大きな時代の分岐点へと到達しているように感じていた。
見つめるものが食い違っているのは、それぞれの信念体系がありその意識から現実の中で出会う情報を取捨選択しふるい分けているからだろう。
誰かにとって事実ではないかと思える情報も、別の人にとってはデマできっと何か別の思惑が働いているように感じられるということが起きているのではないかと考えていた。
どちらがいい悪いではなくて、自分の選びたい生き方に合っているか合わないかという事柄だという気がする。
どちらがいい悪いとジャッジメントしてしまうと争いが生まれる。
色んな考え方や生き方があっていいと考え認め合わなくてはならなかったのだろうと思う。
他者の生き方を認めず生きる権利を奪うようなことが生じた時、あらゆる社会問題の争い火種へと発展し戦争状態に陥って行ってしまうのだろう。
それは明らかな罪となり人間の犯す過ちに違いないと思う。
僕はコロナに対する個人の考えを展開し語っているが、勿論これはフレンチトーストの僕以外のメンバーの考え方とは違っているかもしれない。
シンガーソングライターとして僕は、フレンチトーストとしての曲や散文へと思いを昇華させ作品を生み出して行く。
なのでフレンチトーストとしての曲や散文として作品が生まれているが、あくまでも僕個人の思いが作品になっているということを伝えておこうと思う。
今回のコロナに関係する事柄は非常に多様な価値観にそれぞれの思いが別れるのだろうと思ったので、僕個人の思いをフレンチトーストの作品へと反映させることで社会からの批判をメンバーが浴びて迷惑が掛かるようなことが万が一あってはならないという理由から僕個人の思いであることをここに記しておこうと思う。
コロナワクチン接種をどのように考えるべきかについては、感染すると自分が他者に対して生命の危機に繋がる問題を生む可能性が出て来るので取り扱いが難しく感じていた。
ワクチン接種推進派とワクチン接種を望まない人達の双方にそれぞれの視点に於いての正しさがあり、だがその互いの思う正しさを現実的に証明することが出来なかった。
時が経てばはっきりして来るとは思うし、既に決定的な情報もあるかもしれない。
真実が明かされて行く中で、僕達は自分の事実認識の過ちに気付き生き方を軌道修正したり感じていたことに間違いはなかったことを確かめながら人生の旅を続けて行くのだろう。
第2時世界大戦終焉のドラマでは、天皇が現人神ではないことを国民に伝えたことで神風が吹くというファシズムの号令は一応鳴り止んだ。
だが戦争責任をきちんと追求して来なかったこの国では、神風が吹くというファシズムがでっち上げた神話がまだ経済第1優先主義へと姿を変え息づいていた。
その神話がコロナワクチン接種を望まない人々を弾圧している現実に対しては、僕は人間として決して許せない思いを持っていた。
ワクチン接種推進派と接種を望まない人々とが互いに双方の意見の正しさを証明することが出来ない現段階に於いて、人権を奪うような言動を取ることやそのような社会的動きが生まれることを容認することは出来ないし人間として許すべきではないと思っていた。
それぞれの視点は全て正しいが、ある1つの方向性に向かう流れに従うよう社会が個人に強要するようなことはあってはならない過ちだと思う。
これは戦時中に起きた軍国的な流れだとはっきり気付かないといけないとても不味い問題だ。
コロナワクチン接種推進という日本社会の今の流れが軍国思想を強く帯びている部分があるということについて分からないといけない。
他者を蔑み馬鹿めることも勿論良くないと思う。
SNSでは他人を小馬鹿にしたような投稿を見掛ける。
それは僕自身の姿かもしれないと思い自らを戒めそうあってはならないと思っていた。
人はみなそういった愚かさを心の内に秘めているのだろうと思う。
そして精神にはきっと神としての美しさすら宿している筈だと思っていた。
多くの人が魂のレベルを上昇させその意識の領域へと辿り着く為に、僕はミュージシャンとしてそのサポート役を果たして行きたいと願っていた。
幸せって何なのかな。
お金よりも傍にいる人が自分に対して微笑みを向けてくれること。
社会的成功よりも家庭の中が平和でつつましやかでも安らげているということ。
何よりも仲間を信頼出来るということ。
心から信頼出来る人と僕達は人生の中で何人出会っているだろうか。
パートナーを尊敬しているだろうか。
そういったものに出会えない虚しさをお金で紛らわして来ただけなのではないか。
真の豊かさとはきっと自分自身と誠実に向き合うことから始まって行く。
お金には替え難い信頼することの出来る人との出会いというものがきっと人生にはある。
それがこの世の真の希望なのではないか。
柳の葉音が時代を歌い、月と柳の狭間を夜風が彷徨いどこかへ秋の調べを運んで行く。
この世に生まれて来て本当に良かったと思えるような愛が僕らの暮らしの未来に待っていてくれますようにと、何だかどんな思いも無条件に受け止めてくれそうな聖母のような優しい表情を湛えているように見える夜空に浮かぶ月に僕は願いを掛けた。
あすは中秋の名月を迎え、15夜前日の大きな月の光が僕の心を静かに浸し何だか優しさに抱かれ満ち足りて行くような気持ちになる。
怪しき黒雲のない穏やかな夜空が広がっている夜だった。
愛を自分の外側に求めても決して辿り着くことは出来ない。
自らが自らを磨き自分との誠実な関係を築き上げた末に、自らの心を鏡に映したように信頼関係を結べる人との出会いが訪れるもののような気がする。
釈迦もキリストもそういったことの大切さを説いて来た人のような気がする。
例えば幾ら友達がいたとしてもコロナワクチン未接種者が友達にそのことを語れないようないじめを受け兼ねない現実があるならば友達なんていないに等しいのではないか。
そしてそんな多様性を認められない社会など狂っていると僕は思う。
もう経済第1優先主義は限界だ。
人を真に幸せにすることが出来なかったという結果が出ているように思う。
そこからの脱却を図る政治的アクションなり国民の生活の中での自然に優しい消費行動にしか真の希望はないように僕は思う。
例えばiPhoneやスマホなんて10年、15年、20年位持ったっていい訳だ。
直ぐに機種変が強要されているような資本主義社会。
お客様への真心あるサービス?
それって本当ですかとつい言いたくなってしまう。
いやいや、お金儲けでしょ?
と。
人々の暮らしの幸せを思い一生懸命働く人の思いすらも経済第1優先主義に呑み込まれ、社会構造の中で善意すらも偽善に絡み取られてしまう。
1つの批判は直ぐに次の矛盾を生み簡単に世の中とはなど誰にも語り尽くすことは出来ない。
だが社会システムの中枢にある経済第1優先主義の過ちの数々は確かに認め改善して行かなくてはならない問題だった。
皆が幸せになる未来の訪れを望むのならば。
僕は簡単に出すことなど出来る筈のないこのテーマに向かい時代に対峙しようとし続け足掻いていた。
物については良い物を愛し末永く使う。
勿論百均も便利だが、基本的には使い捨てではない持続可能な社会モデルを作るべき時が訪れていると感じていた。
愛着を持って優れた製品を大切に使う人生は、精神的に豊かで幸せだろうなと思う。
そんなことが当たり前の世の中になって欲しい。
友達も質より量みたいな流れだ。
何もかもが数優先の資本主義社会。
そんなのもう無理があるよ…
コロナの実態が知れない。
様々な情報が錯綜する。
不安がる人々は経済第1優先主義という名のカルト教団に救いを求め飛びついているに等しいような生き方になっているように思えていた。
国家とは宗教のようだ。
宗教はともすれば1つの神を崇拝するが余り狂気を帯び暴走する要素を常に秘めているもののように思う。
信仰は尊いが時に暴力となり恐ろしくもある。
そして信者にはその暴力性が見えなくなってしまうものなのだろう。
僕は宗教的なものは持たず1人間として苦労して自分でこの世の真理を掴みたいタイプの人間だった。
折角生まれて来たのだから何ものにも依存せず自力で生きて魂の修行を積みたかった。
その為にこそこの世は存在するのだろうと思っていた。
僕が求めていたのは、ちっぽけな1人間として大いに悩み迷い葛藤して愛や自由の世界へと辿り着こうとするロック道だった。
その道を極め続けて行けば、最後には宗教も国境も人種問題もなくなり様々なものへの依存感情は消えて地球市民という共同意識へと人類は目覚め真に幸福になれるのではないかと思っていた。
コロナウィルス自体存在しないという研究結果が既にあり、何かの目的の為にコロナパンデミックがでっち上げられている疑いが色濃く滲んでいると思える毎日の暮らしを送っていた。
何が本当なのか分からないがコロナパンデミックが実際に起こっていると仮定するならば、安全性の保証されていないワクチンの接種を推進するよりも国が国民の生活を保障して給付金を支払い閉じ籠って生活出来る社会モデルを作って行く努力をした方が問題解決には余程近道のように思っていた。
政治的に無策のまま自粛要請と解除を繰り返していても拉致があかないと思った。
結局実際にやったのはコロナワクチン接種推進である。
つまりはそれが目的だったと考えるのが筋の通った話ではないかと思った。
コロナワクチン接種を受ける人が多くなると、社会構造上富を得る人の暮らしは潤い権力を握った人々にとって都合が良かったという話ではないだろうか。
まず単純にそのことはあったのかもしれない。
実際にコロナパンデミックが起きているというのならば、在宅ワークが当たり前となり街に人が集わなくても生活が成り立つような社会モデルを本気になって作ってしまった方がいいのではないかと僕は思っていた。
それを実現させて行くには経済第1優先主義を諦め手放さなくてはならなかったように思う。
金より命。
人権が重視された命に優しい社会になって行くことを僕は望む。
欲を捨てれば不可能なことではないと思っていた。
命以上に大切なものなどないと僕は思う。
隣人の幸せを願い様々な権利を尊重しようとするなら自然と持てる意識ではないだろうか。
恐れや不安をベースにした経済第1優先の流れを感じていた。
多くの人々が生き残ることに必死で心が渇いて行き、温かな気持ちをきっと忘れてしまっていたのではないだろうか。
恐いから自分とは違う価値観の人を叩き争いを生じさせてしまっているように感じていた。
だけど恐いのは自分だけではなく批判を向けた相手も同じなのだと分からなくてはならなかった気がする。
そういった思いこそが本当の優しさへと通じるものなのかもしれない。
夜風が柳を揺らす。
葉音がカサカサと音を立て、時代の迷走の果てに生まれた柳の葉のざわめきが心を埋め尽くしてゆく。
万人の心に宿る悲しみの囁きのように。
時代の迷走の果ての月明かりの中で、僕は秋の夜に思い巡らせていた。